突然ですが、このような疑問を感じてはいませんか?
- 「松下幸之助って何がすごいの? どんな人?」
- 「松下幸之助って何をした人?」
日本にはたくさんの優れた経営者が存在しますが、なかでも群を抜いて高い評価を得ている名経営者が、Panasonicの創業者である松下幸之助氏です。
「経営の神様」とも呼ばれていた松下幸之助氏はPanasonicをたった一代で築き上げ、1956年には「5年間で売り上げを4倍にする」という計画を、4年で成し遂げています。
なぜ、松下幸之助氏はこのような偉業を達成できたのでしょうか?
なぜ、松下幸之助は「経営の神様」と呼ばれるほどの経営者になれたのでしょうか?
本記事ではそんな松下幸之助氏に関する基礎的な知識から、松下幸之助氏のすごさを解説していきます。
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丁稚奉公から未来を切り開いた松下幸之助
松下幸之助氏は明治27年(1894年)11月27日、父親の政楠(まさくす)と母のとく枝(え)のもとに和歌山県で生まれました。松下家は小地主の階級であり、資産家であったため比較的豊かな暮らしをしていました。
しかし、豊かな暮らしは長く続かず、松下幸之助氏が4歳のときに、父・政楠が米相場で失敗。これにより、先祖伝来の土地と家を手放すこととなり、一家は和歌山市に引っ越し、父・政楠は1人で大阪に出稼ぎにいくようになります。
そこで父・政楠から「大阪八幡筋の火鉢店で小僧が要る」と連絡がきたため、松下幸之助氏は1人で大阪に丁稚奉公に出たのです。まだ小学校4年生、9歳のことです。
丁稚奉公をするも3ヶ月で閉店
松下幸之助氏は大阪の「宮田火鉢店」で丁稚奉公をすることになり、主に子守や掃除を行いながら、時間があれば火鉢を磨いていました。
しかし、このお店は松下幸之助氏が丁稚奉公を始めてからわずか3ヶ月ほどで閉店してしまったので、「五代自転車商会」に移ることになったのです。
松下幸之助氏はこの五代自転車商会で頭の下げ方から身だしなみ、言葉遣い、行儀といった社会人としてのマナーを学びました。
16歳にして未来を見据える
丁稚奉公を始めてからおよそ5年後、大阪市では電気鉄道の線路が敷かれるようになります。松下幸之助氏はこれをみて「これからは電気の時代がくるから、自転車の需要は減るはずだ。逆に電気事業はこれから伸びるはず」と考えました。
このように当時16歳にして未来を見通していた幸之助氏は、明治43年(1910年)に今の関西電力である「大阪電灯」に見習工として入社します。松下幸之助氏は優秀であったためスピード出世を果たし、最年少で「検査員」に昇格しました。
しかし、松下幸之助氏は「肺尖カタル」という病気にかかってしまいます。
ソケットをもとに独立
病気になったことで不安定な日給生活に不安を覚え、妻と独立を考えます。
このとき松下幸之助は、当時は専門家でなければ危なくてできなかった電球の取り外しを誰でもできるようにしようと考えて、電球ソケットの開発をしていました。
しかし、主任からはあまりいい顔をされなかったため、松下幸之助氏は開発したソケットをもとに大阪電灯を辞め、独立を決めます。
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松下幸之助氏は95円ほどの資金をもとに独立しますが、お金が足りず機械の購入もできませんでした。当時、大卒サラリーマンの初任給はおよそ50円から60円ほどだったため、95円といえば約2ヶ月分の給料でしかありません。
そこで松下幸之助氏は友人から100円を借り、妻の弟の井植歳男氏を呼び寄せました。ちなみに、この井植歳男氏は、後の「三洋電機」の創業者として活躍することになる人物です。
当時は借りていた四畳半の家の半分を工場として使っていたため、たったの二畳からPanasonicは始まったのです。
開発したソケットが全く売れず…
松下幸之助氏は開発したソケットを売ろうとしていましたが、ソケットの胴に必要な「練物の製法」に関する知識がありませんでした。
そこで、松下幸之助氏は練物工場の原料のかけらを拾ってきて研究したり、元同僚に教えてもらいながら研究をすすめ、ようやくいくつかのソケットを製造することができました。
しかし、苦労の末に生み出したソケットは全く売れる気配がなく、大阪中で売り回ってもたったの10円ほどの売り上げにしかならなかったのです。
大量注文が舞い込む
失意のなか、松下幸之助氏のもとにチャンスが舞い込みます。
それは、扇風機に必要な碍盤(がいばん)という電気を通さない板の大量注文です。なんと1,000枚もの注文が舞い込み、「結果さえよければ2万なり3万なりの扇風機に全部応用する」というビッグチャンスでした。
納期が厳しかったものの、松下幸之助氏と井植歳男氏はなんとか1,000枚を納品し、80円という利益を得たのです。この成功をもとに松下幸之助氏は、アタッチメント・プラグや二灯用差し込みプラグを開発。これらがよく売れたため、経営が軌道に乗るようになりました。
そして、ついに大正7年(1918年)に後のPanasonicとなる「松下電気器具製作所」を創業します。
「何もなかったからこそ成功した」松下幸之助
松下幸之助氏の成功は「ないない尽くしからの成功」と言われています。
何がなかったのでしょうか? それは、全てです。
上記で解説した通り、松下家は資産家でしたが父親が失敗して一文無しになってしまい、さらに大阪電灯を辞めたときでさえ95円しかなかったように、財産はありませんでした。
さらに、松下幸之助氏は小学校4年生でわずか9歳のときに丁稚奉公をし始めたため、学歴もありません。また、健康優良児というわけでもなく体が弱かったため、肺尖カタルという病気にまでかかっています。
このように、松下幸之助氏はお金もない、学歴もない、健康もないといったように「ないない尽くし」だったのです。しかし松下幸之助氏はこのような自らの境遇にただ嘆くのではなく、むしろ利用することで成功しました。
自身の境遇を利用して成功した
松下幸之助氏は体が弱かったからこそ、人に仕事を頼むことを覚えました。
学歴がなかったからこそ、いつだって謙虚な姿勢で人に教えてもらうことができました。
そして、お金がなかったからこそ、幼い頃から丁稚奉公でビジネスマナーや商売のいろはを教わり、世の中の厳しさを身を持って体験できたのです。また、お金がなかったからこそ、地道に計画を立てて、銀行の融資のなかでコツコツと事業を進めていくことができました。
したがって、松下幸之助氏は「何もなかったからこそ成功した」といえるのです。
松下幸之助の凄さとは?何を行った?
ここまで、松下幸之助氏の生涯と挑戦を見てきましたが、彼のすごいところはこれだけではありません。彼は他にも、
- 日本に家電を広めた
- 週休二日制を導入した
- 無料配布を行った
ということを行っています。
それでは1つずつ解説していきます。
日本に家電を広めた
昭和4年(1929年)に起きた世界恐慌によって、松下電気器具製作所は大量の在庫を抱えてしまい、リストラをしなければならない状況に陥ってしまいました。
しかし松下幸之助氏は工場を半日勤務として従業員を1人もクビにすることなく、さらに日給も全額支払い続けたのです。
こうして危機を乗り越えた松下幸之助氏は、「生産者はこの世に物資を満たし、不自由をなくすのが努め」とする有名な「水道哲学」に行きつきました。
この水道哲学に基づいて経営し、当時は日本ではまだ普及していなかった家電を日本全国に広めたのです。
週休二日制を導入した
現在では当たり前の週休二日制ですが、実は法令で定められているものではないということは知っていますか?
実は、週休二日制を初めて導入したのは松下幸之助氏です。
昭和40年(1965年)に松下電器産業が導入したのをはじめとし、他の企業も週休二日制にするようになっていったのは、それから15年後の昭和55年(1980年)ごろでした。
しかし、松下幸之助氏が週休二日制を導入した理由は、ただ休みを2日にするためではありません。彼は「休みの1日は休養のために、そしてもう1日は教養のために使うこと」を目的に週休二日制を導入したのです。
無料配布を行った
昭和2年(1927年)、松下幸之助氏は「ナショナルランプ」という自転車ランプを開発し、1万個をお店で無料配布するという、当時では誰も行っていなかった宣伝をしようと考えました。
しかしランプを配布するには、中にいれる乾電池が必要です。そこで松下幸之助氏は、電池の仕入先の社長のもとへ行き「1万個の乾電池を無料でください」とお願いしたのです。
当然、荒唐無稽な話に社長も「それは乱暴な話ではないですか」と相手にもしませんでした。
しかし松下幸之助氏は諦めず「ナショナルランプはとても良い製品だ。1万個を無料配布することでさらに多くの人に知ってもらえるから、必ずその後は売れるはず。そうなれば乾電池も売れることになるため、社長にとっても嬉しいはずだ」という考えのもと社長を説得しました。
想定の2倍売れた乾電池
松下幸之助氏は「年内に20万個売れなければ代金を支払う」という約束をして、ナショナルランプの無料配布をスタートさせます。
その結果、1,000個ほど配布したあたりで続々と注文が舞い込むようになり、最終的には約束の年内20万個の2倍以上も売れて、その数は47万個にも及びました。
これを受けて、めったに得意先周りをしない乾電池会社の社長が、紋付、羽織、袴に威厳のある立ち居振る舞いで、わざわざ東京から大阪の松下幸之助氏のもとへ出向いたのです。
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「何もなかった」という要因以外にも、松下幸之助氏が成功した理由には下記のようなものがあります。
- 人材を大切に育てる
- 目標を掲げる経営をした
- 時代に合わせた事業を行った
それでは1つずつ解説していきます。
人材を大切に育てる
松下電気器具製作所の創業当初は、まだまだ小さく名も知られていない町工場でした。
そのような会社に来てくれるのは、他の会社が採用しないような人たちでした。さらに、採用したとしても出社してくれないこともあったのです。
そのようななか、ある子を採った翌日に松下幸之助氏は外に出て、その子が来てくれるかどうかを待っていました。そして、その子の姿が確認できると急いで中に入り、素知らぬ顔でその子を迎えたそうです。
このような時代もあって、松下幸之助氏は「社員は大事にしなければならない。大事に育てれば育つ」という「人を育てる経営」をしていました。
目標を掲げる経営をした
松下幸之助氏は、経営者としての役割の1つは、「従業員に夢を持たせたり目標を示すことである」としており、「それができない経営者は経営者として失格」とまで語っています。
目標を与えることで従業員はその目標を成し遂げようと、いろいろな工夫や努力をするようになり、皆で一致団結するようになるのです。
しかし、目標や理想を掲げなければ従業員は自身の能力をどのように発揮すればよいか、またどのように協力すればよいかわからなくなり、パフォーマンスが低下してしまいます。
だからこそ、経営者は従業員に対して目標や理想を語り、その目標を達成したら次の目標を提示する必要があるのです。
毎年、目標を発表し続けた松下幸之助
松下幸之助氏は松下電気器具製作所を創業して間もない頃から、毎年の経営の状況と新年の抱負などを発表していましたが、会社の経営が軌道に乗ってきた昭和15年(1940年)1月10日から毎年、経営方針発表会を開くようになります。
そして、その発表会のなかでその年の経営方針や目標を発表し続けてきました。
いまでは当たり前となっている週休二日制や8時間労働制、また初となるアメリカ視察や5カ年計画の発表もこの経営方針発表会だったのです。
昭和7年(1932年)に開かれた第一回創業記念式典では、250年計画という実に規模が大きい目標を掲げて従業員に対して夢や理想を与えました。
まさに、松下幸之助氏の経営は「理想や目標を与える経営」と言えるでしょう。
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松下幸之助氏は大阪電灯に見習工として入社していますが、このときまだ16歳だったにも関わらず、街で走る電車を見かけて「これからは自転車の需要は減って、電気の時代になる」という考えのもとに大阪電灯に入社しています。
このように、松下幸之助氏は時代を読みながら動く人物であり、時代に合わせて事業を行ったことも成功の要因です。
現在で言うならば、AIやロボット事業分野、脱炭素化事業、電気自動車、半導体・エレクトロニクス事業、高度医療先端技術、再生エネルギー分野などの分野であれば、今後の時代に求められるものではないでしょうか。
当然ですが、時代にそぐわない事業を行ったとしても成功は低いため、今の時代、またはこれからの時代に何が求められているのかを考えて動くことが重要です。
まとめ
今回は、現Panasonicである松下電気器具製作所の創業者・松下幸之助氏がどのような人物だったのかを紹介しました。
時代に応じて求められるものを生み出す、その先を見通す力、そして目標を掲げることで従業員を導き、力を発揮させるという、人と企業を育てる経営は、いつの時代においても重要視されることでしょう。
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