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【知らないと恥をかく】渋沢栄一は何をした人?生涯や人物像をわかりやすく紹介!

渋沢栄一は新一万円札の顔として、また2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」で注目を集めている人物です。

一般的に渋沢栄一について知られていることといえば「たくさんの企業の設立に関わった人」であったり、「近代日本経済の父と呼ばれている人」かと思います。

しかし、具体的に渋沢栄一がなにを行ったのか、どのような偉業や功績を残したのかを正しく把握している人は少ないのではないでしょうか。また、渋沢栄一は極度の「女好き」であったことも有名ですが、これもあまり知られていません。

そこで本記事では、渋沢栄一の生涯や功績、人物像がわかる逸話などを解説していきます。

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渋沢栄一とは?

明治から大正の時代に経済の世界で活躍した渋沢栄一は、およそ500以上の企業の設立や運営に関わったとされており、「近代日本経済の父」や「日本資本主義の父」と呼ばれています。

さらに企業だけではなく、およそ600を超える社会・教育事業にも関わっているといわれています。また、日本発の銀行を設立するなど数々の偉業を成し遂げている渋沢栄一ですが、「渋沢栄一は何をした人ですか?」という質問には簡単には答えられません。

なぜなら偉業や功績があまりにも多すぎて、一つだけ挙げることが難しいからです。また、もう一つの理由は、500以上の企業の設立・運営に関わっていながら、自身では財閥をつくらなかったことも理由として挙げられます。

渋沢栄一は、自身の利益を追求して私腹を肥やすために活動していたのではなく、社会をより豊かにするために動いていたのです。

日本で初めて銀行を設立

一言では言い表すことができない渋沢栄一ですが、教科書的に表現するのであれば「日本で初めて銀行を設立した人」となるでしょう。

33歳で大蔵省を退職した渋沢栄一は明治6年(1873年)7月20日に、日本で初めてとなる銀行の「第一国立銀行」を創設します。後に現在の「みずほ銀行」となる銀行であり、現在の中央区日本橋兜町に開業しました。

渋沢栄一が銀行を設立したのは、日本経済がこれから発展していくためには産業に対する融資が欠かせないと考えていたためです。また「国立」となっていますが、実際には民間企業です。

ちなみに、第一国立銀行は日本で初となる株式会社と考えられていますが、坂本龍馬が1865年につくった「亀山社中(海援隊の前身)」も日本で初めての株式会社と言われています。

現在の東京証券取引所を設立

明治11年(1878年)には、人々が株式を用いてスムーズな資金調達を可能にするために、日本で初めての公的取引所となる「東京株式取引所」を創設しています。これは現在の東京証券取引所の前身となりました。

渋沢栄一は日本経済に銀行制度と株式会社制度を普及させ、現在の経済の礎を築いたのです。

このように、日本経済が発展するために資金配分の基礎を構築し、民間経済の活性化に貢献したことによって、「日本資本主義の父」と呼ばれるようになりました。

渋沢栄一の生い立ちから実業家として活躍するまで

天保11年(1830年)、渋沢栄一は現在の埼玉県深谷市の農家のもとに生まれました。家業であった畑作や藍玉の製造・販売、養蚕を手伝いながら、幼少期から父親に学問を学び、従兄弟の尾高惇忠(おだか あつただ)からは本格的に「論語」を学んでいました。

尾高惇忠の影響で、20代で渋沢栄一は尊皇攘夷の思想に目覚めます。「尊王」とは天皇を尊ぶ思想であり、「攘夷」とは外国人との貿易をやめて追い出そうとする思想で、この2つが結びついたものが「尊皇攘夷」です。

そして実際に、倒幕のために仲間とともに高崎城を乗っ取る計画を立てましたが、実行直前に中止します。しかしこの1年後、思わぬ転機が訪れます。なんと、江戸幕府第15代将軍となる「一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)」に武士として仕えることになったのです。

幕臣としてヨーロッパを見て日本の遅れを痛感する

慶応2年(1866年)、一橋慶喜が将軍になると同時に、渋沢栄一は将軍直属の家臣となりました。

そして、パリで開催された万国博覧会に参加し、パリ万博やヨーロッパ各国の実情を視察します。こうして渋沢栄一は、先進諸国の社会がどのようになっているのかを広く学ぶことができました。

ヨーロッパでは整備された水道設備やエレベーター、蒸気機関車など、日本にはまだない先進諸国の進んだ科学技術を目の当たりにしたのです。

これにより、日本がいかに遅れているかを痛感しましたが、これと同時にこの技術や知識を日本に持ち帰ることで日本はさらに発展できるはずだと考えました。

帰国後、民部省(大蔵省)で仕事をする

明治維新後に帰国した渋沢栄一は、明治2年(1869年)に日本で初めての合本組織である「商法会議所」を静岡に設立します。

商法会議所ではフランスで視察した銀行をもとに、農家に資金を貸し出す金融業や、米や肥料などの売買をする物産販売を行っていました。

その後、商法会議所で頭取として活躍していましたが、明治新政府からの民部省への出仕要請を受けて東京に行くことになります。渋沢栄一は、はじめは幕臣だった自分が新政府で働けるのかどうか疑問に感じていたため、断るつもりでした。

しかし大隈重信の強い説得により、民部省で仕事をすることになったのです。

29歳にして責任ある地位に就く

民部省にて租税正という役職に就いた渋沢栄一は、正常に機能していない民部省を整える必要性を感じ、その旨を訴えた結果、改正掛が設置されることになりました。

渋沢栄一は改正掛のトップとなり、29歳にして責任ある地位に就くことになります。

渋沢栄一は租税や貨幣、土地制度などを確立するために計量に用いる長さや体積、重さの基準を定める制度である「度量衡(どりょうこう)」の制定や、国立銀行条例の制定に関わりました。

明治4年(1871年)には民部省は大蔵省に統合され、これに伴い渋沢栄一は大蔵大丞となります。

「銀行の父」として活躍する渋沢栄一

渋沢栄一は大蔵省の官僚にまでなりましたが、その2年後に辞職してしまいます。その理由は、大隈重信や太政大臣の三条実美(さんじょうさねとみ)との対立によるものでした。

しかし、渋沢栄一は大蔵省を辞めるときに名残惜しさなどは感じていなかったとされています。なぜなら、このときすでに渋沢栄一の目は民間事業に向いており、商業の発展を進めたい一心だったためです。

渋沢栄一は大蔵省を辞めたあと、アレクサンダー・フォン・シーボルトやその弟、そして共に大蔵省を辞めた井上馨(いのうえかおる)らとともに、明治6年(1873年)に設立に携わった第一国立銀行の総監役に就任します。

三井組と小野組を説得する

渋沢栄一は、大株主であり豪商の三井組と小野組の頭取2名の上に立ち、日本で初めての銀行を創業しましたが、ここまで至る道のりは平坦なものではありませんでした。

銀行を創業する前に、三井高福と小野善助は資本家として力をつけてきていました。これを受けて、渋沢栄一は両者が協力すれば、自身が理想とする銀行を経営できるはずだと考えたのです。

渋沢栄一は両者を井上馨の邸宅に呼び出し、三井組と小野組が協力すれば理想の銀行を設立できると伝えましたが、両者は従来から商売敵として競り合ってきたため、そのような話は到底受け入れられませんでした。

しかし、それでも諦めずに説得をし続けた結果、日本初となる銀行が設立されたのです。

銀行を日本に広める

明治9年(1876年)、国立銀行条例改正と同時に、各地で国立銀行の経営を望む人が増えていきました。このような人たちに対して渋沢栄一は経営に関するアドバイスを行うなどの開業支援をしています。

また、第一国立銀行による実務研修なども行い、日本の経済を背負って立つ経営者を輩出していったのです。また、地方に根付く銀行を増やすことで、地方がより豊かになるようにも考えていました。

明治時代初期に国立銀行が日本全国に普及した背景には、渋沢栄一による丁寧なアドバイスや支援などの尽力があったのです。

渋沢栄一はこのとき、自身の利益を第一に考えるのではなく、日本に銀行を広めて国民の生活や社会が豊かになることを考えていました。

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「実業家」として活躍する渋沢栄一

第一国立銀行を創設した明治6年、渋沢栄一は大蔵省で仕事をしていた時期から構想を練っていた「抄紙会社(現在の王子製紙)」の設立認可を得て経営を始めました。

従来、日本では紙はほとんど輸入していましたが日本経済の発展のためにも、また品質が高く安価な紙を製造するためにも国産化を実現することは必要不可欠でした。そして、渋沢栄一は銀行の経営と同時並行で、抄紙会社の工場建設を進めます。

そして明治8年(1875年)には、現在の東京都北区に工場が完成し、海外から技師を呼び寄せました。

失敗続きでも諦めずに挑み続ける

しかし、日本で初めての製紙会社であったため、海外から最新の設備や技師を用いてもなかなか軌道に乗りませんでした。工場は赤字が続いたものの、渋沢栄一はそれでも諦めずに従業員を叱咤激励していました。

そして、ついに工場が出来上がってから2年後、経営が順調に進むようになったのです。

紡績業に乗り出す

製紙工場の経営が軌道に乗ると、渋沢栄一は明治15年(1882年)に次は紡績業に乗り出します。このとき設立したのが現在の東洋紡株式会社となる「大阪紡績会社」で、これもまた日本発の民間経営による紡績会社でした。

紡績業自体は日本でも江戸時代からありましたが、日本の綿製品は諸外国でつくられるものには価格競争では勝てません。そこで渋沢栄一は大阪紡績会社の初代社長をイギリスに送り込み、どうすれば安価で大量に製造できるのかを調べさせたのです。

これにより、工場が完成した明治16年(1883年)には、価格が安い中国製の綿花を用いたり、夜間操業をすることで事業を軌道に乗せることに成功します。

渋沢栄一は利益を社会のために使った

このようにしておよそ500社以上の企業の立ち上げに関わり、事業を起動に乗せてきた渋沢栄一は財界のトップとして君臨することになります。しかし、それでも渋沢栄一は事業によって得た利益や名声にはあまり頓着していませんでした。

なぜなら、利益は社会のために使うべきだという信念があったからです。実際、明治42年(1909年)に70歳となった際には、60社もの事業や団体の役職を辞めています。そして、大正5年(1916年)には、77歳で実業界から身を引いています。

渋沢栄一はその後、社会貢献活動に力を入れていったのです。

弱者救済を目指した渋沢栄一

渋沢栄一の社会貢献活動の一つが、現在は「東京都健康長寿医療センター」となっている「養育院」の運営です。

養育院は明治5年(1872年)に、生活困窮者などのサポートを目的につくられた施設で、渋沢栄一は大蔵省で仕事をしていたときから運営に関わっていました。

渋沢栄一はそれまでの事業で手にした利益を、養育院を通して孤児や体が弱い人などの社会的弱者を救うために使っています。

渋沢栄一の最期

昭和6年(1931年)11月11日、渋沢栄一は92歳で亡くなりました。

渋沢栄一が亡くなった際には、斎場に向かうために100台もの車が行列をつくったといわれています。さらに、沿道には弔いのために30,000人もの参列者が集いました。

渋沢栄一がいかに周囲の人間から好かれ、信頼され、重要な人物であったかを物語っているのです。

渋沢栄一が評価される理由とは

ここまで渋沢栄一の生涯を見てきましたが、彼は数多くの企業の創設に関わっており、まさに「日本資本主義の父」と呼ぶにふさわしい人物です。

しかし、渋沢栄一がここまで評価される理由には、まだ下記のような理由が挙げられます。

  • 利益と道徳の両立を実践していた
  • 公益の追求を実践していた
  • 子孫もまた活躍している

それでは1つずつ解説していきます。

利益と道徳の両立を実践していた

渋沢栄一が活躍した明治時代においては、「商売に学問は不要である」という考え方が一般的でした。

しかし、渋沢栄一は今後の商売においては学問が必要不可欠であると考えており、企業経営の成功には経営者が人間として守るべきルールを持っているべきだと考えていました。

そして、実際に渋沢栄一は幼少期に学んでいた論語の精神をもとに、「道徳経済合一論」を提唱しています。道徳経済合一論とは、1916年の著書である「論語と算盤」のなかで渋沢栄一が提唱した概念です。

その内容は、企業の利益を追い求めることと、人間としての道徳を両立させなければならないというものでした。

自身のためだけに会社を経営して利益を出したとしても、その結果、社会がより豊かにならなければ意味がありません。だからこそ利益は独占するのではなく、可能な限り世のため人のために使う必要があるという考え方です。

公益の追求を実践していた

論語の考えをもとに企業の立ち上げや経営を行っていた渋沢栄一は、500社以上もの会社の創設に携わっていながら財閥を形成しませんでした。

数少ない身内だけで利益や経営を回すのではなく、身分や出自に関係なくできるだけ多数の人が能力を活かして会社を回し、その事業によって得た利益は社会に再び還元していたのです。

渋沢栄一は著書「論語と算盤」にて、

  • 「道徳に基づいた利益を追究すること」
  • 「自分よりも他人を優先し、社会の利益を1番に考えること」

と語っています。

渋沢栄一はこうした考えを口だけではなく実際に行動で示しており、創設を支援した企業でも自身で経営の主導権を持とうとはしませんでした。信頼があり実力をもつ人物に任せることで、実に数多くの会社を成功させたのです。

子孫もまた活躍している

詳しくは後に解説しますが、「英雄色を好む」というように渋沢栄一の女性関係は豪快そのもので、正妻以外にも何人もの子どもを持っていました。しかし、嫡出子もまたさまざまな活躍をしています。

嫡出子の長女と次女は法学者と大蔵大臣に嫁ぎ、三女は第一銀行頭取や澁澤倉庫の会長を務めた人物と結婚しています。さらに、長男は伯爵の娘と結婚し、澁澤倉庫の会長となりました。

しかし、本来は家督を継ぐはずだった長男は芸術家肌であったため、廃嫡され家督は継げなかったようです。

また、二男は石川島飛行機製作所の2代目社長となり、三男は石川島飛行機製作所の初代社長で、四男は当方取締役会長や東京宝塚劇場の会長となっています。

渋沢栄一が残した功績

数々の功績を残した渋沢栄一ですが、ここでは下記の功績について簡単に解説していきます。

  • 日本で初めての銀行を創設する
  • 500社を超える会社の創設に携わる
  • 現在の東京ガスの前身となる企業を創設する
  • 何もなかった銀座を復興させる

それでは1つずつ解説していきます。

日本で初めての銀行を創設する

まず、渋沢栄一の最も大きな功績といえるのは、日本で初めての銀行を創設したことです。

渋沢栄一が設立した第一国立銀行時代では、長期で借り入れが可能な低利の融資をして日本経済の発展を後押ししました。そして第一国立銀行のみならず、当時、日本各地に設立された地方銀行の指導やアドバイスを行っています。

また、「第一国立銀行」は、現在のみずほ銀行となり、今でも日本経済を支えています。

このように、渋沢栄一がいなければ日本における金融機関の整備はさらに遅れていた可能性が高く、日本が経済大国として諸外国と渡り合うことは難しかったでしょう。

500社を超える会社の創設に携わる

日本で初めての銀行創設が渋沢栄一の最も大きな功績と解説しましたが、もう一つ最も大きな功績があります。それが500以上の企業を立ち上げたことです。

ここまでの数の企業の設立に関わった人物は、日本では当然渋沢栄一しかいませんし、世界でもおそらく渋沢栄一だけでしょう。これこそまさに、渋沢栄一が「近代日本経済の父」と呼ばれる所以です。

さらに驚くべきことは、渋沢栄一が創設に携わった企業の多くが、現在でもビジネスの第一線で活躍している企業ばかりだということではないでしょうか。

具体的には、上記でも解説したみずほ銀行や日本製紙があり、東京証券取引所やキリンホールディングス、サッポロホールディングス、東京海上日動火災保険などが挙げられます。

現在の東京ガスの前身となる企業を創設する

渋沢栄一が創設に携わった企業で現在でも活躍している企業の一つに、現在の東京ガスの前身となる「東京瓦斯会社」があります。

当時、ガス灯は大衆に受け入れられなかったため、なんとかガス灯を広めようとしていましたが経営が軌道に乗らず、さらには電灯が登場したため廃業寸前となっていたのです。

しかしそれでも渋沢栄一は諦めずに、改善をし続けて事業を軌道に乗せると、官業であったガス事業を高値で民間に払い下げて、それ以降も地道にガス事業を続けて成立させていきました。

現在、私たちが当たり前のように使っているライフラインの一つであるガスインフラは、道徳と経済を両立させることを実践してきた渋沢栄一の偉大な功績のひとつなのです。

何もなかった銀座を復興させる

現在の銀座はセレブが集う、高級感あふれる街として世界的に知られるようになりました。しかし、このイメージは自然と形成されたわけではなく、渋沢栄一の努力によってつくられたものなのです。

明治5年(1872年)の大火事によって銀座は焼け野原となってしまいましたが、渋沢栄一と井上馨はすぐに銀座を復興させるために計画を立てました。

経済の発展を考えて、人や物が滞りなく移動できるようにするために、これまでよりも大きな道を整備したのも彼らの功績です。

さらに、諸外国の力を借りて西洋風の建築を増やし、近代にふさわしく高級感あふれる町並みに変えていきました。

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渋沢栄一の人物像がわかる逸話やエピソード

それではここで、渋沢栄一の人物像がわかる下記の逸話やエピソードを見ていきましょう。

  • 三菱財閥創業者、岩崎弥太郎との喧嘩別れ
  • 14歳でビジネスの才能を発揮する
  • 代官との衝突により野望を抱く

それでは1つずつ解説していきます。

三菱財閥創業者、岩崎弥太郎との喧嘩別れ

渋沢栄一が活躍した同じ時代にもう一人、ビジネスの才能を発揮して活躍した実業家がいました。それが岩崎弥太郎です。岩崎弥太郎は渋沢栄一とよく比較される存在であり、2人は考え方が真逆だったのです。

そんな岩崎弥太郎と渋沢栄一がひと悶着あったのが、船宿での出来事でした。明治(11年1878年)、岩崎弥太郎は向島にあった柏屋という船宿に渋沢栄一を呼び出し、酒の席で「今後の実業はどうすべきか」と質問しました。

このとき、岩崎弥太郎は海運業を独占することを考えており、渋沢栄一を仲間にしようとしていたのです。しかし、渋沢栄一は持論であった合本主義を説明し、岩崎弥太郎はこれに反論。

渋沢栄一も反論し、お互い一歩も譲らぬ大論戦になった挙げ句、最終的に渋沢栄一はその場を立ち去ってしまったのです。

14歳でビジネスの才能を発揮する

渋沢栄一は幼い頃からビジネスの才能を発揮していました。

幼少期は実家の家業であった藍玉の製造や販売、養蚕を手伝っていましたが、あるとき父親の代理として藍の葉の買付を任されました。

そこで、大量の藍の葉を見た渋沢栄一は、品質の善し悪しを見事に見分けて、高い品質の藍の葉だけを買い付けたのです。

この成功体験をもとに、渋沢栄一はビジネスのおもしろさを見出しました。また、渋沢栄一は幼少期から父親が藍玉の商売をしているところを目の当たりにしてきており、自然とビジネスのいろはを身に着けていったものと考えられています。

勉強をして経済を学んだのではなく、家業を手伝いながらヒト・モノ・カネが行き交う環境でリアルなビジネスを学んでいったのでしょう。

代官との衝突により野望を抱く

渋沢栄一は17歳になった頃、父親の代理で代官に御用金(ごようきん)を払いに生きました。御用金とは、幕府や藩が財政を維持するために農民などに課した税金のようなものです。

そこで渋沢栄一は、理不尽な要求をするだけではなく尊大な態度で御用金を受け取る代官に疑問を感じ、御用金の支払いをしませんでした。当時は代官が絶対とされていたにも関わらずです。

当然、この態度に怒り心頭の代官は渋沢栄一に対して侮辱の言葉を吐き、渋沢栄一もまた怒りと悔しさを感じました。

この体験によって渋沢栄一は身分制度に対する疑問と反感を抱き、後に武士となり国政に参加する野望を抱くようになったのです。

無類の女好きだった渋沢栄一

ここまで見てきたように渋沢栄一は数々の企業の創設に関わり、日本初の銀行を設立し、財閥は形成せずに事業で得た利益は公益のために使った、かなりの人格者のようです。

実際、道徳と経済の両立を実践しており、その人格に疑う余地はありません。

渋沢栄一もまた、自身の功績について「俯仰天地に愧じることなし(やましいことは少しもない)と語っていたとされています。

ただし、このセリフにはこのような但し書きがありました。「明眸皓歯に関することを除いては」。「明眸皓歯(めいぼうこうし)」とは美人のことを指しています。

つまり、「女性関係を除いてはやましいことはない」と自身ですら言うほど、渋沢栄一は女好きだったのです。

遊郭で325万円を使う

最初の妻との間に長女が生まれた文久3年(1863年)、渋沢栄一は父から100両をもらい、従兄弟の渋沢喜作とともに京都に向かいました。

そして、このとき初めて吉原に行ったのですが、渋沢栄一は「たちまち24、5両の金がなくなってしまった」と後に語っています。

当時、1両はおよそ13万円ほどの価値があったため、渋沢栄一は吉原で325万円もの大金を使っていたのです。

「英雄色を好む」を地で行く

このように、大の女好きであった渋沢栄一は、最低でも20人の婚外子がいたとされています。

しかし、これは当時の古い倫理感覚によるものであり、渋沢栄一の周囲には彼以外にも色を好んだ男性はいました。

例えば、伊藤博文は渋沢栄一よりも派手に女遊びをしていたとされており、徳川慶喜は側室との間に10男11女をもうけています。

ここまで女好きだった渋沢栄一の妻はさぞかし苦労したことでしょう。渋沢栄一の後妻である渋沢兼子は、子どもたちにこのように話しています。

「大人(渋沢栄一のこと)も論語とはうまいものを見つけなさった。あれが聖書なら絶対守れなかったろうに」。

聖書には「汝、姦淫するなかれ」とありますが、論語は性道徳についてはあまり触れられていないのです。

渋沢栄一の成功の秘訣は「人脈を築き、人に任せる」こと

女遊び以外については、渋沢栄一に学ぶべき点は非常に多くあります。

なかでも学ぶべきポイントは、「人脈を築き、人に任せる」です。

繰り返しになりますが、渋沢栄一は500以上もの企業の設立に携わり、そして成功に導いています。しかし、彼一人で経営をしていたら当然ですが500社もの会社を軌道に乗せることは不可能です。

そこで渋沢栄一は、実質的な経営には自身は関わらず、他の人に任せることで数々の企業を成功させていきました。

つまり、立ち上げや資金調達では渋沢栄一自身が動きますが、その後の経営については信頼の置ける有能な人物に任せたのです。

この戦略が可能だった理由は、渋沢栄一自身が周囲の人間に信頼され、強固な人脈を築いていたからです。

渋沢栄一が人脈を築いた方法

新しく会社を設立する話がでた際に、渋沢栄一は資金調達や利害調整などを行っていましたが、実業家として実績ができてくると「渋沢栄一さんが携わっているなら安心」という存在にもなり、数多くの企業を設立できたと考えられています。

このような活動を進める中で渋沢栄一はさまざまな業界や方面に人脈を築き、信頼の置ける人材を増やしていったのです。そして、設立に携わった企業の経営を任せる際には、その人材に託していきました。

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まとめ

ここまで渋沢栄一の生涯や、人物像がわかる逸話やエピソード、渋沢栄一の功績などを見てきました。

渋沢栄一は数多くの企業に関わり、数多くの事業で利益を得ていながらも公益のために社会貢献活動を進め、道徳と経済の両立を実践していきました。

あまり知られていませんが、いすゞ自動車や川崎重工業、サッポロビール、帝国ホテルといった、現在でも日本経済を支える企業の設立にも貢献しているのです。

渋沢栄一は新一万円札の顔としても話題になりましたが、未だにあまりその功績が認知されていません。しかし、彼がいなければ日本は先進諸国と肩を並べる国にはなっていなかったことでしょう。

渋沢栄一の功績を考えると、新一万円札の顔として最もふさわしい人物といっても過言ではないことがわかります。

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