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和田義盛と和田合戦(和田義盛の乱)をわかりやすく解説!【鎌倉殿の13人】

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NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見ていて、下記のような疑問を感じてはいませんか?

  • 「和田義盛(わだよしもり)ってどんな人?」
  • 「和田義盛は何をしてきたの?」

2022年に放送のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する「和田義盛」は、武勇や政治スキルに優れ、侍所別当として源頼朝や鎌倉幕府を支えた人物です。

本記事ではそんな和田義盛に関する生涯や、行ってきたことを解説していきます。

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和田義盛(わだよしもり)と源頼朝

和田義盛(わだよしもり)と源頼朝

和田一族は関東地方で武家として栄えた坂東八平氏の1つで、有力御家人・三浦氏の支族です。

和田義盛は1147年(久安3年)に、杉本義宗の長子・三浦義明の孫として生まれました。和田義盛が生まれたのち、和田義盛の父・杉本義宗(三浦義宗)は三浦氏の本拠地の衣笠城から、鎌倉・杉本上を築城すると本拠を移しました。

父の杉本義宗は1163年(長寛元年)に、三浦水軍を率いて房総の長狭常伴を攻撃した際に矢に打たれて負傷してしまいます。そして相模・杉本城にて39歳で死んでしまいました。

このとき和田氏は17歳ほどだったため、三浦氏の家督は父の弟の三浦義澄が継ぐことになったのです。

これにより和田義盛は、三浦半島の和田郷の相模・和田城に入ることになり、この地名から和田性を名乗ったとされています。

以仁王により源平合戦が始まる

1180年(治承4年)、以仁王(もちひとおう)は各地の源氏に呼びかけ、平家を倒すため挙兵しましたが以仁王自体の挙兵はすぐに鎮圧されてしまいます。

しかし、その後源氏たちが次々に挙兵しました。以仁王の挙兵は、源平合戦が始まりとして歴史的に重要な事件でした。

以仁王は1151年(仁平元年)に生まれた後白河上皇の息子で、次期天皇として有力でしたが、後白河上皇と平滋子との間に生まれた高倉天皇にその座を奪われてしまい、平時の圧力によって不遇の時代を過ごします。

さらに以仁王は自身が持っていた土地も平清盛に奪われてしまい、才能があった以仁王にとってはこの境遇に耐えることができずに、1180年、平氏を打ち負かすために挙兵したのです。

石橋山の戦い

以仁王の呼びかけに応えるべく、平治の乱で負けて伊豆に幽閉されていた源頼朝も挙兵します。こうして源頼朝と平家が初めに戦った戦が「石橋山の戦い」です。

この石橋山の戦いに敗れた源頼朝は洞窟に隠れますが当時、平氏に仕えていた梶原景時に見つかってしまいます。しかし、梶原景時は源頼朝を見逃す代わりに、源頼朝が国を治めるようになった際にはお礼をするように求めました。

源頼朝は、三浦半島に勢力を保っている三浦一族と合流しようとしていましたが、石橋山の戦いに負けてしまったため実現できませんでした。そこで、源頼朝と三浦一族は平家軍から逃れ、房総半島で合流します。

和田義盛はこの三浦一族のうちの1人であり、源平合戦が始まった当初から源頼朝に仕えてきた功臣だったのです。

実は天然キャラだった?

このとき、源頼朝や三浦一族は平家軍に完膚なきまでに叩きのめされ、失意の底にいました。しかし、このような状況で和田義盛だけは、そのようなことを気にする様子もなかったようです。

「平家物語」によると、和田義盛は「父が死に、子孫が死に、多くの同胞が亡くなりましたが、源頼朝様のお姿を見ることができたため、喜びによって悲しみは亡くなりました。そして、どうか本懐を遂げて天下をお取りください。その暁にはぜひ私を侍所別当に任命してください。私は侍所別当になることが長年の夢だったのです」と言ったようです。

これにより「今はそんな状況じゃないだろう」と突っ込まれ、その場が和んだとされています。

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富士川の戦いにて平家軍に圧勝し、侍所別当になる和田義盛

富士川の戦いにて平家軍に圧勝し、侍所別当になる和田義盛

そして同年1180年、源頼朝は平家を倒すために、頼朝の使者となって有力勢力の上総広常を味方にして挙兵します。その甲斐あってか富士川の戦いにて、源頼朝は平家軍に圧勝しました。

そして勝利した源頼朝は鎌倉にもどり、鎌倉幕府を開いたのです。源頼朝は和田義盛を望み通り初代侍所別当として任命し、重要なポジションに就く御家人となりました。

「侍所(さむらいどころ)」とは関東の御家人を集めたり武士を統率する組織であり、簡単に言うと軍事力や警察を担う組織のことです。そして「別当(べっとう)」とは、最高責任者という意味であり、「侍所別当になった」ということは「侍所のトップになった」と言い換えられます。

平家追放と源頼朝と源義経の対立

翌年1181年(治承5年)には豊後の芦屋浦の戦いや、そして九州平定などでも弓の名手として活躍して源頼朝を支えていった和田義盛ですが、源義経と対立した際にも源頼朝の味方をしています。

1184年(元暦元年)、源頼朝の腹違いの弟であった源範頼が平家追放の九州遠征に行くと、義盛は軍奉行として従軍しました。源範頼は注意深い人物であったため、戦について義盛に相談をしていたようです。

しかし、遠征軍は食糧難に陥り、船もなく九州行くこともできず戦は泥沼化しました。ようやく船を手に入れた義盛一行は豊後国に行き、そして1185年(元暦2年/文治元年)の壇ノ浦の戦いにて、ついに平家を滅亡させます。

源義経と源頼朝の対立

平家を倒し、成功を収めた源義経は、後々源頼朝と対立するようになります。

これは、源義経が源頼朝に従順にならず自己中心的な動きをしたためとされていますが、義経とともに行動していた梶原景時が源頼朝に対して、「源義経は人の話を聞かない」といったような報告をしていたことが理由だとも考えられています。

これは梶原景時の讒言として有名ですが、このとき義経を悪く思っていたのは梶原景時だけではなかったようです。義経を弁護する人物が誰もいなかったことがその証拠です。

源義経の首実検が行われる

源義経は源頼朝に謝りましたが、許されることはありませんでした。それどころか、殺されそうになっていることを知り、頼朝追討の院宣を得て挙兵します。

※「院宣(いんぜん)」とは上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書のことです。

しかし源頼朝が院宣を得ると、義経は奥州藤原氏を頼り逃亡しました。しかし、1189年(文治5年)に藤原泰衡によって滅亡させられてしまいました。このとき、梶原景時とともに源義経の首実検を行ったのが和田義盛です。

ちなみに「首実検(くびじっけん)」とは、討ち取った首がその者の首であるかどうかを確かめることや、その儀式のことを指しています。

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梶原景時に侍所別当の座を奪われる和田義盛

梶原景時に侍所別当の座を奪われる和田義盛

1192年(建久3年)には、和田義盛が勤めていた侍所別当の座を梶原景時が、奪ってしまいます。

梶原景時はもともと侍所別当の座を狙っていたため、梶原景時は和田義盛に「1日だけ侍所別当を代わってほしい」と頼みました。そこで和田義盛は、喪に服すために所領に変える際に代わったのです。

しかし梶原景時の頼みを承諾してしまったが最後、梶原景時は和田義盛を騙し、その後も梶原景時が侍所別当として居座り続けてしまいました。

実際、梶原景時は教養があり知略に長けて、頭の切れる人材であったため、源頼朝も和田義盛より梶原景時のほうが侍所別当として相応しいと踏んだのかもしれません。

和田義盛と13人の合議制

和田義盛と13人の合議制

1190年(文治6年/建久元年)、源頼家が入洛(京都に入ること)する際は、頼朝の信頼を得ていた和田義盛が先陣を勤めます。

さらに、右近衛大将拝賀の随兵7人のうちの1人に選ばれ、これまでの手柄として御家人10人の成功(じょうごう)推挙が頼朝に与えられたときは、和田義盛も10人のうちに選ばれました。

平家を滅亡させ鎌倉幕府の屋台骨を築いた頼朝ですが、時は過ぎて源頼朝の死後、1199年(正治元年)に息子の源頼家が2代将軍に就任します。

しかし、まだ若い頼家は頼朝ほどの政治スキルを持ち合わせていなかったため、独裁的な政治体制を作ります。

これを受けて御家人たちは源頼家の独裁を制御するために「13人の合議制」を発足させ、和田義盛もこのメンバーの1人となりました。

13人の合議制のメンバー

1199年(建久10年)源頼家が将軍に就任してたったの3ヶ月後に発足した13人の合議制。文字通り13人の御家人によって構成されており、下記のようなメンバーになっています。

名前 役職
北条時政 伊豆・駿河・遠江守護
北条義時 寝所警護衆(家子)
梶原景時 侍所所司 → 侍所別当 播磨・美作守護
和田義盛 初代侍所別当
比企能員 信濃・上野守護
三浦義澄 相模守護
大江広元 下級貴族出身で鎌倉幕府開府に貢献
三善康信 初代問注所執事
中原親能 公文所寄人 → 政所公事奉行人 京都守護
八田知家 常陸守護
安達盛長 三河守護
足立遠元 公文所寄人
二階堂行政 公文所寄人 → 政所令別当 → 政所執事

このようなメンバーで構成されていた13人の合議制ですが、毎回全員が集まって話し合っていたというわけではありません。

また、あくまで将軍を補佐する役割であったため、最終的には将軍の判断に委ねられていました。

「梶原景時の変」と「比企能員の変」

1199年(建久10年/正治元年)、梶原景時は結城朝光を追放しようとします。しかし、梶原景時は他の御家人たちから疎まれていたため、66人の武士によって梶原景時の弾劾状が将軍の側近の大江広元に提出されてしまいます。

これにより梶原景時は追放され、1200(正治2年)に滅ぼされてしまったのです(梶原景時の変)。さらに、侍所別当の座を梶原景時に奪われた和田義盛は、再び侍所別当に返り咲くことになりました。

そして北条氏と比企氏の間でも争いが生まれ、このとき和田義盛は北条氏の味方をして、北条氏とともに比企能員とその一族を滅ばしたのです(比企能員の変)。

和田義盛と北条氏

このように、和田義盛は幕府内で着実に力をつけていきましたが、それをよく思わなかったのが北条氏です。北条氏は以前から権力を広げようと考えていたため、比企能員を滅ぼしたり2代将軍の源頼家を追放するといった動きをしていました。

源頼家を追放した後、1203年(建仁3年)に第3代将軍に迎えたのが源実朝です。

しかし、実朝はまだ12歳であり幼すぎたため、将軍を補佐するためのポジションである「執権」に就いたのが北条時政でしたが、補佐とは名ばかりで実質的には北条時政が実権を握っていました。

しかし、北条時政は調子に乗りすぎてしまい、本来は将軍の名前で決定や命令をしなければならないところを自身の名前で行うようになってしまったため、御家人の反感を買ってしまいます。そして最終的に、息子である北条義時によって失脚させられてしまったのです。

その後、北条政子と弟である北条義時が時政の代わりとして補佐役になりました。

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和田義盛を消したい北条義時による「和田合戦」

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3代将軍として源実朝が就任してから10年後の1213年(建保元年)、権力をより強固なものにするために2代執権・北条義時は、大きな力を持っている和田義盛を亡き者にしようと計画します。それを防ごうと和田義盛が起こした反乱が和田合戦です。

きっかけとなったのは、1213年(建暦3年)に「泉親衡の乱(いずみちかひらのらん)」でした。

源実朝を将軍職から引きずり下ろし、その代わりに頼家の遺児を擁立して北条氏を倒そうと泉親衡という人物がクーデターを企てていました。

しかし、この計画は実行する前にバレてしまい、泉親衡は捕まります。

そして、泉親衡はクーデターに関する情報をペラペラ喋ったのですが、このとき、和田義盛の子の「和田義重」や「和田義直」だけでなく甥の「和田胤長(わだたねなが)」が関係者として名前が挙げられたのです。

北条氏に利用される和田胤長

これを受けて和田義盛は息子たちを開放するように求めます。

源実朝は和田義盛に同情するとともに、これまでの功績を評価して息子たちを開放します。しかし、クーデターの首謀者だった和田胤長だけは開放されることはありませんでした。

さらに、北条義時はこの事態を利用し、和田胤長を囚人のように縛り上げて和田義盛の前に晒して和田重盛を挑発しました。さらに、和田胤長の屋敷を没収したり和田重盛に与えられるはずだった土地を横取りしたり、挑発行為が繰り返されたのです。

さすがに和田義盛もこの行為を許すことはできずに、和田義盛の怒りは北条義時に向けられます。実はこれは北条義時の策略であり、自身にとって邪魔者の和田重盛を消すために和田重盛に謀反を起こさせて殺害しようと考えていたのです。

和田合戦の結末

1213年(建暦3年)、ついに和田義盛は北条氏を倒すために挙兵します。ともに北条氏を討つはずだった三浦義村が直前に北条氏に寝返ってしまいましたが、それでも北条氏との戦いをやめるわけにはいきませんでした。

和田義盛は武勇に優れた「朝比奈義秀」の活躍で北条氏との戦いは五分五分となりましたが、結果的に和田軍勢は追い込まれ、夕方には由比ヶ浜への撤退させられてしまいます。

そして、和田義盛のもとに息子の和田義直が殺されたという知らせが届き、和田義盛は戦意を失ってしまったのです。ついに和田義盛も戦死し、和田軍は壊滅。こうして和田義盛が討死した戦いを「和田合戦」といいます。

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まとめ 和田義盛について

まとめ 和田義盛について

ここまで和田義盛の生涯や人物像についてみてきました。

和田義盛は平家軍に負けて源頼朝らが失意の底にいるなかで、「侍所別当になることが夢」と言うような天然キャラだったとされています。そして富士川の戦いで平家を打ち負かしたあとは、実際に和田義盛が侍所別当として任命されました。

しかし、その後は梶原景時に騙されて侍所別当の座を奪われたり、息子がクーデターの関係者として捕まり、これを北条義時に利用されて「和田合戦」で討たれてしまいます。

このように、和田義盛は天然であるがゆえに周囲の思惑に踊らされてしまったのかもしれません。

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