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北条時政とはどんな人?功績や死因の理由を徹底解説

鎌倉時代初期はさまざまな目論見や謀略が交錯しており、一度勉強しただけでは頭がこんがらがってしまい、正確に理解することが難しい時代となっています。

なかでもその混乱に拍車をかけている人物が「北条時政(ほうじょう ときまさ)」です。時政は謀略に長けた政治家だったために、あまり良いイメージを抱いていないという方も多いのではないでしょうか?

そこで本記事では、北条時政に関する基本的な知識から、出生から死亡するまでの流れや行ったことを解説していきます。

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北条時政とはどのような人物だったのか?

日本史上初となる本格的な武家政権は鎌倉幕府ですが、この鎌倉幕府を成立させて武士の世をつくった人物として有名なのが源頼朝です。しかし、源頼朝の裏にはもうひとりの主役がいることをご存知でしょうか?

その人物こそ、およそ700年にわたる武家政権の屋台骨を築いた影の主役、北条時政です。北条時政は鎌倉幕府の初代執権であり、時政の娘である北条政子は源頼朝の妻でもありました。

北条時政の出生

北条時政は1138年(長暦3年)に伊豆の田方郡北条(現静岡県伊豆の国市)の豪族のもとに生まれました。豪族とは、地域を統治する地方行政の長のような存在で、今で例えると市長や町長といったところです。とはいえ、社会的な地位はそこまで高くなかったともいわれています。

北条時政の前半生について解説していきたいところですが、現時点では史料がなく明らかになっていません。

1159(平治1年)に起こった「平治の乱」により平清盛に負けた源義朝の息子である源頼朝は、伊豆国への流罪となります。

平治の乱とは、鳥羽法皇が亡くなったことにより後白河天皇方と崇徳天皇方が対立し、勝った後白河天皇が実権を握ったあとに、側近の信西と藤原信頼が対立したことによって生じた政変です。

源頼朝の監視役であった北条政子

平治の乱に負けたことによって流罪となった源頼朝を監視する役目を負っていたのが、北条時政の娘である北条政子でした。しかし、時政が京都に行っている間に、政子と頼朝が恋仲になってしまったのです。時政はこの結婚に対しては猛反対していました。

なぜなら、北条一族は桓武平氏の子孫であり、2番目の奥さんの牧の方(まきのかた)の父親は、平清盛の家来だったからです。つまり、平氏の血筋にある北条家が、源氏と恋仲になることなど許せなかったのです。

それだけではなく、源頼朝は当時はただの流人でしかなかったため、流人に嫁がせることにも抵抗がありました。しかし、その一方で後々鎌倉幕府を開くほどの才能を持ち合わせていることにも気づいていたのかもしれません。

さらに、ちょうど同じタイミングで平清盛の悪政の噂が耳に入ったことで、最終的に1177年(安元3年)に時政は頼朝と政子の結婚を認めるに至りました。そして、ここから源氏と北条一族の関係が深まっていきます。

源頼朝の挙兵で活躍する北条時政と北条義時

そして、1180年(治承4年)には平時を打倒する旨の令旨が、以仁王(もちひとおう)から源頼朝のところに届き、頼朝は挙兵することになります。

「令旨」とは、皇太子や三后(太皇太后、皇太后、皇后)からの命令を伝えるために出される文書のことです。また、以仁王は後白河天皇と藤原季成の娘である藤原成子の間に生まれた第三皇子です。

これにより、源頼朝は平氏を討伐するために挙兵しますが、このとき北条時政とその息子の北条義時もともに戦いました。また、源頼朝の弟である源義経も参戦し、平氏は追い詰められ1185年(寿永4年/元暦2年)の壇ノ浦の戦いによって平氏は敗北しました。

これにより長年続いた源平の争いが終結したのです。

平氏滅亡後も活躍する時政

さらに、源義経が頼朝の立場を危うくすることを危惧して、頼朝は弟であるにも関わらず義経を殺してしまいます。このときも北条時政の息子・義時が頼朝を支えていました。こうして北条時政親子は源頼朝の信用を得て、源氏内で地位を固めていったのです。

平氏を滅亡させた後、北条時政は源氏の武家として京都の治安を守るために活動していました。もともと時政は平氏の子孫でもあったため、京都でも顔が知られており京都の人々も時政に対しては逆らうことがなかったのです。

したがって、平家なき後の乱れた京都を統治するには、北条時政はまさにうってつけの存在でした。

頼朝によって開かれた鎌倉幕府

いよいよ源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府が開かれ、戦の世も終わりに近づくかと思われましたが、頼朝は突然亡くなってしまいます。頼朝は馬から落ちてしまい、その後20日も絶たずに死んでしまったと言われています。

61歳にして人生の幕を閉じた頼朝でしたが、「頼朝の死には北条氏が暗躍しているのではないか」という説もあります。

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執権として権力を握る北条時政

源頼朝亡き後、第2代将軍として就任したのは頼朝の長男であった源頼家でした。

そして、北条時政は鎌倉幕府の初代執権に就任します。執権とは、将軍を影で支えるエリートポジションであり、現代で例えるなら内閣官房副長官のような役職です。

13人の合議制が発足される

2代将軍の源頼家は独裁的な政治を行いがちであったため、頼家の独裁政治をコントロールするためにも御家人たちが決定や判断を下す13人の合議制が発足します。

この13人のメンバーには北条時政と義時も含まれています。このとき、義時は自身の地位を高め、確立するためにさまざまな謀略を実行していきました。

そのうちの1つが「比企能員の変」です。

時政に排除された比企能員

北条時政は幕府の実権を握ろうとしましたが、源頼家の後ろ盾には比企能員がいたため、鎌倉幕府においては北条時政と比企能員が2大勢力として力を持っていました。この力の均衡が崩れたのは1203年(建仁3年)、第2大将軍に就いた源頼家が病に冒されたときのことです。

頼家が持っていた土地を頼家の子どもたちに相続させることを、13人の合議制で頼家の承諾を得ずに決定してしまったのです。これを知った頼家は激怒し、この決定に不満をいだいていた比企能員に時政を追討するように命じました。

しかし、父・時政の身の危険を察知した義時は比企一族を滅亡させたのです。そしてこの時、頼家の子どもまでも亡き者にし、頼家は北条一族によって追放されてしまいました。また、比企氏の一族を滅ぼした後も、時政は自分の立場を危うくする有力な御家人の排除をし続けていたと言われています。

第3代将軍として源実朝を擁立

そして、北条一族によって将軍職を解任され、現在の静岡県伊豆市修善寺に追放された源頼家の次に第3代将軍となったのが、源実朝の次男である源実朝でした。

そして、北条時政は政所別当に就き、執権として幕府の実権を掌握したのです。ちなみに政所とは政治をとり行う所のことを指しています。

さらに将軍となった源実朝は12歳であり将軍としては幼すぎたため、時政は後鳥羽院から実朝の後ろ盾になってもらう約束を取り付けました。しかし、後鳥羽院からは「幕府から武士を送り、後鳥羽院の命令によって京都の警備をすること」という条件がつけられました。

この後鳥羽院直属の武士は西面の武士と呼ばれます。

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北条政子と北条義時により追放される北条時政

このように執権として強力な権力を手に入れ、逆らう者がいなくなった北条時政ですが、あろうことか娘の北条政子と北条義時によって失脚させられてしまいます。

時政の後妻である牧の方は、時政の前妻との娘婿である「畠山重忠」が謀反を起こすと讒訴し、時政をそそのかしました。結果、畠山重忠を討つことに成功したものの、重忠が謀反を起こす気がなかったことが幕府内に知れ渡ると時政はの影響力は地の底となりました。

しかし、これを挽回するべく牧の方は、娘婿である平賀朝雅を将軍にしようと考えます。またも牧の方の頼みを聞き入れた時政は、当時2代将軍だった源頼家を殺害し、将軍職を奪おうとしたのです。

政子と義時によって阻止される

しかし、娘の北条政子と北条義時はこの計画に反対し、二人は時政の家にいた実朝を義時の家に移して殺害を阻止したのです。それと同時に、時政の味方をしてた御家人たちを説得して義時の味方になってもらいました。

この結果、完全に孤立してしまった時政は失脚。時政は追放され、牧の方と伊豆に幽閉されることになってしまいました。その後、政治の世界に返り咲くことはなく1215年(建保3年)に腫瘍によって78歳で亡くなります。

その結果、執権の座には義時が就くことになり、さらに政所だけではなく侍所のトップにも就くようになり、実権を掌握したのです。

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北条時政が残した功績

このような生涯を送った北条時政ですが、具体的にどのような功績を残したのでしょうか?

ここでは下記の2点について見ていきましょう。

  • 後白河法皇に守護・地頭を認めてもらった
  • 比企能員の変で北条一族の地位を確立

それでは1つずつ解説していきます。

後白河法皇に守護・地頭を認めてもらった

1185年(文治元年)の壇ノ浦の戦いによって平家が倒されたあと、源頼朝は後白河法皇から守護・地頭を設置することを認めてもらう必要がありました。このとき、後白河法皇と交渉をしたのが北条時政だったのです。

源頼朝は武家社会をつくるために、守護の設置をしなければなりませんでした。なぜなら、守護は各国に1人ずつ置かれ、その国の御家人を監視し、軍事や警察の役割を担っていたからです。

この地頭を決める権利を鎌倉幕府が持つことで、朝廷ではなく武士が社会を統治する社会を目指していました。

そして、時政は千騎の兵を引き連れて入京。後白河法皇と話し合い、守護・地頭を設置することを認めさせることができたのです。これが鎌倉幕府を開くきっかけとなりました。

比企能員の変で北条一族の地位を確立

日本史の授業を思い出すと、源頼朝が亡くなった後はすぐに北条一族が政治の実権を掌握したと思っている方も多いのではないでしょうか?

しかし、地位は確立しつつありましたが、それでも時政は有力御家人の1人でしかなく、北条氏以外の御家人が北條氏を圧倒する力を持つこともあり得たのです。

その代表的な例が、比企能員です。頼家の妻であった若狭局は比企能員の娘であり、二人の間にできた一幡を将軍にしようとしていました。もしここで一幡が将軍に就任していた場合、将軍の母方の祖父は時政ではなくなります。

比企能員が外祖父となり、北条氏は血縁関係においても比企能員よりランクが下になり、殺害されることもあり得たでしょう。しかし、比企一族は「比企能員の変」によって滅ぼされ、当時5歳だった一幡までもが討伐されてしまいました。

酷いようにも思いますが、この時代においては油断すれば殺されるかもしれないような環境であったため、北条一族にとっては比企能員の変は大きな功績と言えるでしょう。

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北条時政はどのような家族構成だった?

北条時政は後妻の牧の方にそそのかされたことによって結果的に失脚してしまいましたが、牧の方以外にも「伊東入道の娘」という妻がいました。

この2人の妻と時政との間には7人の子が生まれていましたが、その他にも北条政子を含めて女の子が7人、男の子が1人いたようです。

合計15人の子どものうち、鎌倉幕府のなかで重要な存在となったのは北条政子と北条義時の2人だけです。上記で解説したように政子は源頼家と結婚し、時政は頼朝の舅として頼朝を支援し続けました。

そして、義時は時政の次男ですが、その長男は石橋山の戦いによって亡くなってしまいました。

北条時政の他の子ども

政子、義時以外の子供としては、下記の人物が挙げられます。

  • 頼朝の義弟・阿野全成に嫁いだ阿波局
  • 牧の方の唯一の男子でありながら16歳で急死した政範
  • 足利尊氏の先祖・足利義兼に嫁いだ時子
  • 1240年まで生き、北条氏の重鎮となった時房

時政の子孫は鎌倉幕府において重要な存在になっただけではなく、鎌倉幕府の次に開かれた室町幕府を開く際にも関わっているのです。

北条時政の家紋「三つ鱗」

北条氏の家紋は「三つ鱗」と呼ばれており、3つの三角形が円のなかにきれいに収まっている、美しい家紋です。

この家紋の由来は、時政が神奈川県藤沢市の江ノ島を訪れた際に、音楽、弁舌、財富、知恵、延寿を司る女神である弁財天に、子孫繁栄を願い参拝した際にさかのぼります。

この時、美しい女性が大蛇に変身し、時政は「子孫は国王となるでしょう」と告げられました。そして3枚の鱗を残していったのです。これが三つ鱗の家紋の由来となっているエピソードです。

とはいえ、義時を始め時政の子孫は日本の国王にはなっていません。

北条義時、北条時政がNHKの大河ドラマに

ここまで見てきた北条一族ですが、2022年に放送予定のNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条義時や北条時政らの目論見や企てが交錯する物語が描かれます。

タイトルにもある「鎌倉殿の13人」の13人とは、源頼家が将軍に就任した際に発足された「13人の合議制」のメンバーのことで、そのメンバーは下記の通りです。

  1. 北条時政
  2. 北条義時
  3. 比企能員
  4. 安達盛長
  5. 足立遠元
  6. 三浦義澄
  7. 和田義盛
  8. 八田知家
  9. 梶原景時
  10. 大江広元
  11. 中原親能
  12. 三善康信
  13. 二階堂行政

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まとめ

ここまで北条時政の人物像や生涯を見てきました。

源頼朝が死亡したあとに執権として権力を握った北条時政ですが、娘の北条政子と息子の北条義時によって失脚させられています。さらに、この2人によって北条時政は追放されてしまいました。

しかし、北条時政は後白河法皇に守護・地頭を認めさせたり、比企能員の変で北条一族の地位を確立するなどの功績も残しています。

北条時政は執権として権力を握ってから、権力思想を持った妻の牧の方によって暴走してしまいますが、政治手腕に長けた人物であることは間違いないでしょう。

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