歴史上の人物の名前って、「聞いたことはあるけど…なんの人だっけ?」ということが多いですよね。例えば「大塩平八郎」。皆さんは彼がどうしてその名を歴史に残すこととなったのか、その理由をご存知でしょうか?
- 「大塩平八郎ってどんな人? なにをしたの?」
- 「大塩平八郎の乱ってなに? なぜ反乱を起こしたの?」
- 「大塩平八郎の身長が217cmって本当?」
このような疑問を抱く方も多いでしょう。大塩平八郎は、江戸時代後期に活躍した大阪町奉行所の与力(よりき/奉行などの配下で、部下の下級役人を指揮する役の人)であり、陽明学者です。
何度も難しい事件を裁いてきた功績により名与力として評価されており、学者としても「洗心洞」という学塾を開くなど、大塩平八郎は有名な人物でした。
そんな大塩平八郎は「大塩平八郎の乱」という反乱を起こしたことでも有名ですが、なぜ大塩平八郎は反乱を起こしたのでしょうか?
本記事では大塩平八郎に関する基本的な知識から、その人物像や反乱を起こした背景などを解説していきます。
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大塩平八郎とは?
大塩平八郎は1793年3月4日(寛政5年1月22日)に、現在の大阪府に、与力の大塩敬高(おおしおよしたか)のもとに生まれました。大塩家は代々、大阪東町奉行組与力や旗本(はたもと)を務める家柄です。
旗本とは徳川将軍に直接仕える幕臣であり、将軍に謁見できる御目見得以上の人物を指しています。対して、与力とは現在で言う裁判官と警察官を合わせたような役職です。
大塩平八郎は25歳で8代目与力になり、同僚の西町奉行与力の汚職事件では内部告発によって不正を摘発しています。このように、大塩平八郎は清廉潔白であり不正は絶対に許さないという正義感の強い男でしたが、この思想の根底にあったものが陽明学です。
10代から陽明学を学ぶ
大塩平八郎は幼い頃に両親を亡くしており、祖父に育てられていました。そして13歳の頃には奉行所で見習いとして働き始め、儒学者の頼山陽(らいさんよう)とも交流をします。このとき学問に励み、陽明学と出会います。
この陽明学の教えでは、「心即理」や「知行合一」という、当時の日本の儒教では異端とされている教えを説いていました。
心即理とは「心こそ理である」とする教えで、「人間は心と体が一体であり、正しいことは心が教えてくれる」という意味を持っています。そして知行合一は「知識と行為は一体であり、本当の知識とは、実践が伴わなければならない」ということを指しています。
陽明学を学んだ大塩平八郎は、与力として汚職や戒律を破った僧に関する、普通ならば手を出しにくい事件を処理していきました。
賄賂は決して受け取らない
当時、江戸幕府の役人の間では証人から賄賂を受け取ることが横行しており、不正や腐敗の温床となっていました。大塩平八郎のもとにも賄賂がしばしば送られることがありましたが、決して受け取ることはありませんでした。
さらに受け取らないだけではなく、同僚の与力たちに対して「不正や腐敗を見逃しているから事件の調査が進まないのだ!」と強く訴えたのです。このように、大塩平八郎は正義感が強いだけではなく、実際に行動に移す「知行合一」を体現していました。
こうして、与力としていくつもの汚職や腐敗を解決し、活躍を見せたことで、「大阪に大塩あり」と言わしめるに至ったのです。
私塾「洗心洞」で陽明学を教える
さらに大塩平八郎は与力として活躍するだけではなく、与力を辞めたあとの1824年(文政7年)に天満(現在の大阪市北区の南東部)に、私塾「洗心洞」を開設して同僚の与力や部下、近くの村里の医者や豪農などに陽明学を教えるようになります。
しかしなぜ、大塩平八郎は活躍していた与力を辞めたのでしょうか?
それは、幕府の高官が関わる規模の大きい汚職事件の際に、幕府の介入によって3人の役人が処罰されただけで事件がうやむやにされてしまったことが原因です。これにより、与力という職や自分一人だけの力に限界を感じた大塩平八郎は、38歳で与力を辞職したのでした。
高井実徳の転勤も影響
また、汚職事件に次々とメスをいれる大塩平八郎は奉行所内でも敵が多かったのですが、上司であり理解者でもあった高井実徳(たかいさねのり)の支えによって与力としての地位を守っていました。
しかし、1830年(文政13年)に高井実徳が転勤してしまったことも、与力の職を辞すという決断に影響していると考えられます。
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「大塩平八郎の乱」とは1837年(天保8年)に、大塩平八郎が天満の自宅に火をつけて蜂起し、同志とともに江戸幕府に対して起こした反乱を指しています。
なぜ大塩平八郎は反乱を起こしたのでしょうか? その背景には、大飢饉がありました。
天保の大飢饉の発生
大塩平八郎の乱が起こる4年前の1833年(天保4年)に、「天保の大飢饉」が発生します。日本中の人々が飢えに苦しみ、餓死する人が続出。その人数は30万人以上だとされています。
またそれ以前から江戸時代では、金融市場の発達により米の先物取引や投機取引が行われ、幕府は乱高下する米価を調整できずに飢饉が続いていました。
そこに異常気象も加わって生じた「天保の大飢饉」は、およそ50年前に生じた「天明の大飢饉」よりも餓死者は少ないとは言え、5年間で人口が125万人も減ったとされています。
そこで大塩平八郎は自身が持っていた家財や蔵書を売却して620両もの大金を用意し、1万人に配りましたが、これでも飢えに苦しむ人すべてを助けることはできず焼け石に水でした。
奉行所への不満が募る
「天保の大飢饉」では1833年(天保4年)と、1836年(天保7年)がもっとも被害が酷かったとされています。1度目の危機は大阪日町奉行であった矢部定謙(さだのり)の手腕によってなんとか危機を乗り越えました。
しかし、2度目の危機の際は矢部定謙は転勤していたため、大阪東町奉行であった跡部良弼(あとべよしすけ)が対応する事になります。しかし、この跡部良弼は餓死者が大量に出る事態にも関わらず、幕府のご機嫌取りのために、大阪の米を江戸に送ってしまうのです。
さらに豪商たちも米を買い占めていたため、米の値段は高騰。庶民には手の届かないものになってしまい、さらに飢饉が深刻化してしまいます。
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跡部良弼は江戸に米をまわすだけではなく、少しでも米を買いに来た場合はその人を捕まえるほど強引に推し進めていったため、治安が悪化していきました。大塩平八郎は町奉行に民を救うことを訴えますが、奉行には受け入れられませんでした。
そこで大塩平八郎は商人や奉行を倒すことを考えます。先程、大塩平八郎は自身が所有する蔵書を売って得たお金を貧しい人々へ配っていたと解説しましたが、実はこの時、「商人や幕府を倒して、奴らが蓄えている米や金を分けるから、大阪で反乱が起こったら集まるように!」という旨のビラを影で配っていました。
さらには爆薬や大砲も用意して、軍事的な訓練を進めるなどし、着々と準備をしていたのです。
弟子に裏切られ、当日に鎮圧されてしまう
大塩平八郎の最終的な狙いは、大量に米が眠っている「大阪城の米蔵」でした。
しかし、大塩平八郎の2人の弟子に裏切られてしまい、反乱計画が奉行所にバレてしまいます。奉行所に反乱計画がバレてしまったことを受けて予定を早めることにし、準備不足のなか大塩平八郎は自身の邸宅に火をつけて蜂起します。
さらに、商人たちの家も襲撃して、大阪の町は5分の1が焼け落ちました。そして奪った米や金銀を貧しい民衆に渡していき、総勢300人ほどの勢力となります。
しかし、しばらくすると大阪城からおよそ2,000人もの幕府軍が到着し、大塩平八郎たちは総攻撃を受けて、反乱を起こした当日に鎮圧されてしまいました。
大塩平八郎の最期
反乱を起こすも当日に鎮圧されてしまった大塩平八郎とその父親は、およそ40日間に及び逃げおおせていました。しかし、ついに潜伏先を包囲されてしまい、火薬を用いて潜伏していた小屋ごと爆発、自決します。
こうして大塩平八郎は1837年5月1日(天保8年3月27日)、44歳で死亡しました。
大塩平八郎の遺体は激しく損傷しており、本人とはわからないほどでした。しかし幕府は、爆死して黒焦げになった大塩平八郎の遺体を塩漬け保存をして、門弟20人とともに磔に処しました。
また、大塩平八郎の乱によって処罰された人物は750人にものぼります。
大塩平八郎は生きている?
大塩平八郎の遺体は本人とはわからないほど激しいダメージを受けていたため、幕府は大塩平八郎が本当に死んだのか確信が持てず、民衆の間でも「本当は逃げていて、生きているのではないか?」という生存説がまことしやかに囁かれるようになります。
大塩平八郎の死後、越後の柏崎では国学者である生田万(いくたよろず)が、天保の飢饉のさなか貧民救済のため蜂起した事件である「生田万の乱」が起こります。さらに、その後も各地で反乱や一揆が頻発しますが、その多くが「大塩残党」や「大塩門弟」と名乗っていました。
こうして幕府は大塩平八郎生存説に大きく翻弄されることになります。
大塩平八郎は言葉でも民を救おうとしていた
「大塩平八郎の乱」では武力によって政治を変えようとした大塩平八郎でしたが、武力だけではなく言葉の力も用いて貧民を救おうとしていたのです。
大塩平八郎が反乱を起こす数日前に、幕府の老中(江戸幕府に常設された最高職)に対して秘密の手紙を送っていました。手紙には、下級役人から老中までもが加担している腐敗に関して書かれていました。
大塩平八郎は「この腐敗や不正が世間に知れ渡ることで、関係者が処罰されて少しでも正しい政治を取り戻せるはずだ」と考えて、幕府に対して内部告発を行っていたのです。
しかし、この手紙は老中の手には届かず、政治が変わることはありませんでした。
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大塩平八郎は身長が大きく、なんと217cmもあったとされています。
「骨は語る 将軍・大名家の人々(鈴木尚著 東京大学出版会)」という書籍によると、江戸時代の庶民の平均身長は男性で157cmだったとされており、当時の平均身長と比べると217cmはかなり高身長です。
この身長は当時、大塩平八郎が来ていた服から算出しているため、あながち間違ってはいないと考えられています。
実際は160cm台後半ほどだった?
とはいえ、大塩平八郎の身長が217cmという説は誤りだとする説もあります。
大正8年に出された「大塩平八郎伝」では、門人の証言が引用されており、これによると”大塩の容貌ですが、なかなか美男でござりました、身の丈は五尺五六寸、少しやせすぎですが凛としたとした風采はそりゃ立派なものです”とされています。
つまり、この証言が本当だとすると、大塩平八郎の身長は160cm台後半となるのです。とはいえ、当時の平均身長が155~157cmほどだったとすると、160cm台後半でもやはり身長が大きいと言えるでしょう。
(引用:大塩平八郎丨Wikipedia)
大塩平八郎の乱による影響
大塩平八郎の乱は幕府軍にすぐに鎮圧されてしまい、大塩平八郎が目指していた政治の改革や米の配布などの、最終的な目標を達成することはできませんでした。しかし、高い評価を受けていた元与力が反乱を起こしたことは、幕府だけではなく社会に大きな影響を残しました。
これにより、後の「生田万の乱」と「天保の改革」につながったのです。
生田万の乱
上記でも軽く触れましたが、大塩平八郎の乱によって各地で一揆や打ちこわしが頻発しました。そのうちの1つが「生田万の乱」です。
生田万の乱は1837年(天保8年)に越後国柏崎(現在の新潟県柏崎市)で国学者の生田万が起こしましたが、生田万も反乱に失敗してしまい、家族とともに自決しています。
天保の改革
大塩平八郎の乱が起こってから4年後に天保の改革が行われました。
天保の改革とは、老中の水野忠邦が老中首座(全体を統括する役)になった1841年(天保12年)に行われた改革です。
天保の改革では財政の引き締めや物価の抑制、農村の復興のために贅沢を禁止し、倹約を求めました。
まとめ
ここまで大塩平八郎の来歴やその人物像、大塩平八郎が起こした「大塩平八郎の乱」について見てきました。
大塩平八郎は不正や腐敗が横行している奉行所において賄賂を受け取ることなく、内部告発を行い政治を変えようとし、「知行合一」の思想のもと、常に実践をし続けてきた人生を送ります。
その結果、大塩平八郎の乱を起こして自害に追い込まれますが、その意志は日本各地に広まり、後世に伝わっていったのです。
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