先日、あるプロジェクトのミーティングに出席した時の話だ。
そのミーティングは、プロジェクトの責任者が交代して、初めての開催だった。
前年度、成果が上がらなかった責任者が更迭されたため、新任の責任者がやり方を見直すためにメンバーの多くを招集したものだった。
前任者の名誉のために付け加えておくと、前年度の失敗の原因はプロジェクト責任者の怠慢や無能によるのではなく、突然の疫病による世の中の変化によるものだ。
おそらく、誰であってもプロジェクト自体は成果を上げることができなかっただろう。
ただ、前任の彼は上との折り合いが悪かった。
更迭されたのは、成果が上がらなかったことよりも、上に嫌われたことと、それゆえプロジェクトの説明責任を十分に果たしていないと判断されたためだと、私は推測した。
会社員であるからには、上に嫌われてはならない。
悲しいが事実だ。
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目次
後任のプロジェクト責任者
さて、後任のプロジェクト責任者がどんな人かを私は知らなかったので、私は会議前にさりげなく、ごく親しい社員の方に聞いた。
「どんな人?」と。
彼は言った。
「そうだね……ちょっと面倒な人なんだよね。」
「面倒」という言葉には若干の含みがあったため、私は聞き返した。
「面倒な人、ってあまりいい意味では使わないですよね。」
「うん、正直苦手。」
「苦手ですか。」
「その人がいると、疲れるんですよ。」
「そうなんですね。」
「話が伝わらない、というか、彼との会話がすごい面倒。」
「筋が通ってないとダメとか?」
「いや、それなら別に問題じゃないですよ。自分の意見にすごい固執するんですよね。」
確かにそれは迷惑だ。
責任者が頑迷な組織を数多く見てきたが、大抵は皆が疲弊していて、離職率も高い。
頑固なだけならまだよいが、そんな人物に限って「皆の成長のため」といった、強固な信念を持っていて、一方で、ビジネスがおろそかになっていたりする。
私はややうんざりして、ミーティングに臨んだ。
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プロジェクトの責任者の「あるべき論」
さて、ミーティングは始まったが、聞いていた話の通り、長引きそうだった。
プロジェクトの責任者が「新しい目標」を提示したが、それがかなりチャレンジな目標であったためだ。
皆の表情が曇っている。
例の社員が私にささやいた。
「でもあの人、大きなこと言ってるけど、社長とはもっと低めの目標で握ってるからね。」
なるほど、自分の目標は低くして上に伝え、部下には高い目標を提示する。
サラリーマン管理職の処世術の最たるものだろう。
「みんな、それを分かってるから、彼の話を真面目に聞く気になれないんですよ。」
ダメじゃん、部下に見透かされてるじゃん、と思ったが、とにかく責任者は「この目標で行く」と宣言し、言った。
「ここまでで、何か質問は?」
そこで、部下のリーダーの一人が手を挙げた。
「今の話ですと、去年よりも目標が高いようです。間違っていないでしょうか。」
「間違っていない。」
「しかし、自粛が要請されているこの状況では思い切って動くこともできません。先ほどの目標を達成するのはかなり難しいと思います。」
「何もやっていないうちから、そんなことを言わないでくれ。やってみないと分からないだろう。」
「しかし、去年はご存じの通りの結果でした。」
「だったら、なおさら今回はそれを超えるべきではないのか。」
なぜ超えるべきなのか、質問者にはさっぱり分からなかったらしく、彼はあきれたような表情に変わり、何も言わずに
「分かりました」
と言った。
その後責任者は「営業施策」の説明に入った。
「今年は、昨年よりも電話営業と、直接訪問を増やしてほしい。」
これについても、メンバーは反論した。
「こんな状況で直接訪問なんて、受けてくれないですよ。」
しかし、責任者は言った。
「昨年成果が出なかったのだから、今年はより行動量を増やすべきでは」
「しかし……行動量を増やすといっても、電話と直接訪問でなくてもよいのではないでしょうか。」
すると、責任者は言った。
「今だからこそ、直接会って話すことを大事にすべきだ。」
なぜ直接会うことが大事なのか、それについて詳しく話す気はないらしい。
そのため、質問者も先ほどと同様に黙って「分かりました。」とだけ言った。
会議はその後も続いたが、万事がこのように進行し、会議は紛糾すらしないままに終わった。
皆、疲れた表情だ。
例の社員は私に言った。
「いつもこんな感じなんですよ。面倒でしょ?」
「面倒、という言葉の意味が分かりました。」
彼はうなずいた。
「あの人、いつも「あるべき」ばかりなんですよ。自分では手を動かさないくせに。」
「高い目標が好きなんですかね。」
「いや、目標が高いのは、別に悪いことじゃないです。それならこんなに言わないですよ。彼がダメなのは、「べき論」だけで、理由を皆に説明しないことと、自分では手を動かさないことです。」
「確かに。」
「そんなん言うなら、お前がやってみろって言いたくなりますよ。」
なぜ「あるべき論」は嫌われるのか?
「あるべき論」は嫌われる。
だが、なぜ嫌われるのだろう。
その本質が、このミーティングで明らかになったように私は感じた。
一つには、「あるべき」という言葉がもつ強制力だ。
理想を指し示す場合、とくに皆に理想に向かって大きな努力を要求する場合は、皆にその理由も併せて示し、丁寧に説得を試みる必要がある。
ところが「あるべき論」では、その理由が丁寧に説明されることは少ない。
「高い目標を持つべき」
「顧客第一であるべき」
「成長を志向すべき」
と、「正論」が主張されるが、往々にして、建前とメンツが優先し、実態を伴うことがない意思決定が行われる。
ゆえに、「べき論」は有害なのだ。
もう一つは、「あるべき」という言葉が、強い価値観の表明になっており、疑問をはさむことが許されない雰囲気を生むからだ。
特に責任者が「あるべき」と言い出せば、メンバーにそれ以外の選択肢はない。
「べき」とおっしゃいますが、なぜ「べき」なのですか?
と聞けるメンバーは、まずいない。
前述した会社のように半ばみなあきらめて、「分かりました」というだけだ。
「上意下達」が主となる組織、あるいは建前と面子が重要な組織では、「あるべき論」が跋扈する。
しかしそれは、往々にして、幹部とメンバーの利害関係の相反を生み、成果を追及する意欲を失わせる。
ゆえに「べき論」は、ここでも有害だ。
まとめ 「あるべき論」は有害
もし管理者なら、「べき論」の副作用について、よく知らねばならない。
特に価値観の強固な経営者やマネジャーは、要注意である。