梶原景時は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の最も近しい側近として活躍した人物です。
2022年放送の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場し、歌舞伎役者の中村獅童さんが演じています。
本記事ではそんな梶原景時がどのような人物だったのかや、何をしてきたのかを解説していきます。
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目次
梶原景時とは?
1140年(長久元年)、梶原景時は相模国鎌倉郡梶原庄(鎌倉市梶原付近)を本拠地とする豪族の次男として生まれました。また母親は、武蔵国多摩郡(現在の東京都八王子市)の武士であった横山孝兼の娘です。
豪族とはある地方に土着して大きな富や勢力を持っている一族を指しており、その地域においてある程度の権力を持っています。
諸説ありますが、梶原氏は皇族を始祖にもつ坂東八平氏(ばんどうはちへいし)に通じているとされています。平安時代の中期に、桓武天皇の子孫である平高望(たいらのたかもち)が、子息と一緒に関東地方へと移りました。
ここから、各々別の氏族として各地に住み着くようになったのが坂東八平氏です。平将門や清盛もこの血族とされています。
梶原氏は鎌倉で力を持ち、地位を固めた鎌倉氏の一角といわれているのです。
源頼朝を救い、平家方から源氏方になった梶原景時
梶原景時は鎌倉幕府が開かれてから間もない頃に源頼朝を支援しており、源頼家が第2大将軍となったときには「13人の合議制」のメンバーの1人にも加わっています。
この13人の合議制は、2022年放送予定のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」としても描かれており、梶原景時は重要人物として登場するでしょう。
梶原景時はもともとは同じ坂東八平氏のひとつである大庭市とともに源氏に仕えていましたが、1160年(平治2年/永暦元年)に起きた平治の乱によって平清盛が源義朝に勝ったことにより、梶原景時はこれ以降、平家に仕えるようになります。
しかし、梶原景時が「石橋山の戦い」で、ある有名な逸話が残っており、それがきっかけで平時方から源氏方になったのです。
石橋山の戦いで敗れた源頼朝
1180年(治承四年)、源頼朝は伊豆国において目代だった山木兼隆を倒すために、相模国の豪族である三浦氏と合流するために石橋山に軍勢を配備し、合戦の準備をしました。
ですが、相模国の大庭景親をはじめとする3,000の騎兵がいたため、思うように進めません。
数日後、景親によって倒された頼朝は「杉山」に逃げますが、翌日にはさらに奥の山中へと追いやれれてしまいました。頼朝と一緒に倒された北条時政の嫡男・宗時は、伊東祐親によって討伐されてしまいます。
さらに、北条時政とその息子・義時は箱根の湯坂路を超えて甲斐国へと逃げ、山中に身を隠した頼朝絶体絶命のピンチに陥ったのです。
源頼朝を救った梶原景時
そして、ここからが梶原景時の逸話となったシーンです。
石橋山の戦いで敗れた源頼朝は、山中で見つけた洞窟のなかに隠れて、どうにか見つからないようにしていましたが、ついに梶原景時に発見されてしまいます。
梶原景時は当時、平家方について源頼朝を討伐しようと参戦していたため、普通ならここで景時は頼朝を殺さなければなりません。
実際、景時に見つかった頼朝は「もはやここまでか。敵に殺されるくらいなら自害してやろう」と、刀を抜いて自殺しようとしました。
しかし、ここで景時は頼朝の自害を止め、「ここは見なかったことにしておきます。だから、あなたが国を治めるようになったときにはお礼をしてください」と告げたのです。
大庭景親を騙す
こうして源頼朝を見逃した梶原景時は、洞窟から出て「コウモリはいるが源頼朝はいない。向こうの山に行ったのではないか」と大庭景親に言いました。
しかし、手ぶらで出てきた梶原景時を見て怪しんだ大庭景親は、「本当か? 私も確認してみよう」と洞窟の中に入ろうとするのです。
ここで梶原景時は洞窟の前に立ちふさがり、「私を疑っているのか? 私を信じられないというのなら許さない。 洞窟に入ったらただではおかないぞ」と大庭景親を止めました。
その様子に威圧された大庭景親は中に入るのをやめ、梶原景時は源頼朝を救ったのです。
この逸話はさまざまな書物で伝えられていますが、一説によるとこれは史実ではなく源頼朝と梶原景時を結びつけるための伝承でしかないとも考えられています。
とはいえ、このとき源頼朝が見つかっていれば殺されていたため、鎌倉幕府も開かれることはありませんでした。この逸話は歴史の重要な瞬間だといえるでしょう。
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上記で見てきたように、梶原景時は源頼朝の窮地を救いましたが、なぜ平氏の側について戦っていたのに源氏を助けたのでしょうか?
平氏には嫌々従っていたのか、それとも鎌倉幕府を開くことになる源頼朝の実力を見抜いていたのでしょうか?
そのあたりを掘り下げていきましょう。
後三年の役
梶原景時が平氏に従っていながら、源頼朝を救った理由は1083年(永保3年)の後三年の役にありました。
後三年の役とは1083年から1087年(寛治元年)に生じた、奥州の支配者・清原氏の内紛に、陸奥守(むつのかみ)である源義家が介入した戦いです。
源義家は強く勇ましかったことで有名な英雄であり、源頼朝の先祖にあたります。そして、梶原景時の先祖は、その英雄の源義家と主従関係にあった梶原政景でした。
梶原政景は後三年の役でもとても活躍した人物です。
石橋山の戦いで争った梶原景時と大庭景親は、どちらもこの人物から派生した一族であるため、もともとは源氏に従っていました。
しかし、平治の乱によって源頼朝の父・源義朝が倒され、平清盛を中心とする平家の力が大きくなったため、梶原一族も大庭一族も平家に仕えるようになったのです。
源義朝の信頼を得て御家人となる梶原景時
さて、九死に一生を得た源頼朝は海路で安房国(現在の千葉県南部)に渡り、再び力をつけはじめます。東国の2万を超える武士を束ねて、圧倒的兵力を率いて鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)に向かい、1180年(治承4年)に「富士川の戦い」によって平維盛(たいらのこれもり)を討伐します。
そして、平氏に仕えていた大庭景親は降伏しましたが処刑されました。
一方で梶原景時は土肥実平を通して鎌倉に向かい、1181年(治承5年/養和元年)に源頼朝と対面します。それ以降、源頼朝の信頼を得た梶原景時は御家人となり、側近として最も高い地位になったと言っても過言ではありません。
その理由は、そもそも源頼朝にとって梶原景時は命の恩人であるということもあるのですが、それ以上に梶原景時は「文筆に携わらずといえども、言語を巧みにする武士」であったことが背景にあります。
つまり梶原景時は、武芸だけに特化した関東武士のなかでも、貴重な弁舌や知略に優れて教養がある人材だったのです。
重要なポジションに就く
武士による社会を目指していた源頼朝にとって、武芸に秀でた関東武士は欠かせません。しかし、同時に武士を統治しなければならず、それに求められるものは武芸ではなく政治力でした。そのため、教養や弁舌に優れた梶原景時は適任だったのです。
こうして源頼朝から大きな信頼を寄せられた梶原景時は、囚人の監視や鶴岡八幡宮若宮の造営、源頼朝の御台所であった北条政子の出産に関わる事柄をまとめる役を任されたり、ついには侍所別当にも任命されているのです。
ちなみに「御台所(みだいどころ)」とは大臣・将軍家など貴人の妻に対して用いられた呼称です。また「侍所別当(さむらいどころべっとう)」とは、軍事力や警察の役割を果たす部署を指しています。
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源頼朝に最も近い側近として、さまざまな仕事を任され力をつけていく梶原景時にとって、大きな仕事となったのが上総広常(かずさひろつね)の暗殺です。
上総広常は源頼朝のもとに集まった武士の1人で、なかでも一際大きな軍事力を持っていました。
上総広常は源頼朝の軍事力として欠かせないポジションについていましたが、その一方で頼朝を軽んじる発言があったり、関東での独立を匂わせる発言をしていたため、目をつけられていたのです。
そんな力を持つ武将であり、敵に回すと面倒なことになる存在が上総広常でした。したがって、源頼朝は自身にとって邪魔者になり得る存在だったため消したがっていましたが、大勢の武士を率いる上総広常を殺すには大義名分が必要でした。
そこで頼朝の代わりに行動したのが、梶原景時です。
上総広常を消すも無実が証明された
1183年(治承7年)、上総広常と梶原景時がすごろくをしている最中に、突然、梶原景時が上総広常の首を切り落としました。その理由は「謀反の疑いがあった」というものでしたが、源頼朝が梶原景時に命令したとされています。
こうして邪魔者を消した源頼朝と梶原景時でしたが、実はその後の調べによって上総広常には謀反を起こそうという気はなかったことが明らかになります。
上総広常の鎧から源頼朝の武運を祈る願文が発見されたのです。願文とは、神仏に願を立てる時、その趣旨を記した文のことです。
これを受けて源頼朝は上総広常を亡き者にしたことをとても後悔したとされています。また、上総広常を暗殺したことについて後白河法皇に訊かれた際に、源頼朝は「関東の自立を企てていたから討伐した」と応えています。
実はただ上総広常が邪魔だっただけ?
謀反など企てていなかった上総広常を殺してしまったことを後悔した源頼朝ですが、実はこれはただの政治ショーだったという説があります。
つまり、ただ大きな力を持つ上総広常は、政権樹立を目指す源頼朝にとっては目の上のたんこぶだったため、上総広常に謀反を起こす気があろうとなかろうと関係なく消したのではないか、と言われているのです。
これにより、梶原景時は源頼朝からさらなる信頼を得るようになりますが、景時以外の御家人は源頼朝を恐れるようになりました。
細かく報告をすることで能力を買われた梶原景時
1184年(寿永3年)、景時は宇田川の戦いで嫡男の梶原景季とともに戦います。この戦いにおいても梶原景時は源頼朝から高い評価を得ています。
戦の戦況を報告するために源義経らは鎌倉に使者を送りました。しかし、使者は「勝ちました!」というように、戦果だけを知らせてくるため源頼朝はその詳細を聞いても、誰も答えられなかったのです。
そのなかで、梶原景時の使者が鎌倉に着き、戦の戦況を事細かに記した報告書を源頼朝に渡したところ、頼朝は梶原景時の事務能力や実務能力の高さを大いに評価したとされています。
しかし、これ以降も梶原景時は細かく戦況を報告するのですが、御家人の功績だけではなくどのような失敗をしたのかも知らせるため、他の御家人からは煙たがられていたようです。
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1184年(治承8年/元暦元年)から1185年(元暦2年/文治元年)にかけて起こった源平合戦の最中、梶原景時は軍の指揮を執り、その功績から土肥実平とともに西国5カの守護を任命されるなど、その地位も高まってきました。
しかし、この戦において問題が生じたのです。源氏は源範頼をトップとする軍と、源義経をトップとする軍の2つに分かれて戦っていたのですが、梶原景時は源義経の軍に加わっていました。しかし、源義経と梶原景時は作戦について考えが異なり、対立してしまいます。
景時と義経の逆櫓論争
先ほど源義経と梶原景時は作戦について考えが異なり、対立してしまうとありましたが、その1つに屋島の戦いの逆櫓論争があります。
屋島の戦いにおいて、嵐のなか、5隻の船で讃岐国(現在の香川県)に本拠を構える平氏に奇襲作戦をかけますが、梶原景時はもしもの時のために船が後退できるように船に「逆櫓(さかろ)」を付けておくべきだと言いました。
しかし、源義経は「そのようなことをすると、兵が逃げてしまう」と梶原景時のアイデアを拒んでしまいます。この景時と義経の論争を「逆櫓論争」といいます。これだけではなく壇ノ浦の戦いにおいても2人は意見が食い違い、衝突し、2人の仲はギスギスしたものへと変わっていきました。
梶原景時の讒言
上記で、他の武士と異なり梶原景時は戦況報告を事細かに行っていたと解説しましたが、歴史書の「吾妻鏡(あづまかがみ)」によると、梶原景時が源義経を批判していたと書かれています。
梶原景時は源義経のことを、「傲慢であり武士たちは緊張を強いられている」や「他者の意見を聞かない」としており、これが後に梶原景時の讒言とされるようになります。
※讒言(ざんげん)とは、他者を陥れるためにありもしない事を目上の人に告げ、その人を悪く言うことです。
これを受けて源頼朝は源義経を勘当してしまいました。
梶原景時の変で滅亡
1199年(正治元年)、源頼朝が死んだ後は2代将軍として源頼家が就任しますが、頼朝のような卓越した政治スキルは持っていなかったため、独裁的な政治をするようになります。
これにより、御家人たちは13人の合議制を発足し、梶原景時もこのメンバーに入ります。
あるとき、御家人の結城朝光は源頼家の独裁政治を嘆いたところ、梶原景時が激怒。頼家に結城朝光の処分を求めますが、このときすでに梶原景時はほかの御家人に嫌われていました。
その結果、結城朝光を罪に問うはずでしたが、御家人66名の署名を集めた連判状が出され、梶原景時は追い出されてしまったのです。
まとめ 梶原景時について
ここまで梶原景時の生涯や源頼朝から信頼を得た理由について見てきました。
梶原景時はもともとは源氏に仕えており、平治の乱によって平家に仕えるようになりました。
しかし、石橋山の戦いで洞窟に逃げた源頼朝を見つけた梶原景時は、源頼朝を見逃すことで、あとになって源頼朝が将軍になった際に御家人として重用されています。
命の恩人であったことももちろん理由の一つですが、何より梶原景時は武芸だけではなく教養もある優れた人材であったことが主な理由です。
しかし、梶原景時はあまりに有能で源氏に忠実に仕えていたため、ほかの御家人の手によって追い出されてしまったのです。
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