ちょうど3年前の今ごろ、とある大けがにより、心血を注いで取り組んでいた競技を断念せざるを得ない事件が起きました。
身体を動かすこともままならず、当時の記憶は曖昧なほどに、大きなショックを受けました。
重い足取りで訪れた、顧問先のヘアサロン(美容室)。
鏡の前に座った筆者に、オーナーのRは言いました。
「これからが楽しくなる髪型にしましょう。毎日を、楽しめるように」
そのときは、この言葉の「真の意味」は理解できませんでした。
Rは、ヘアスタイリスト(美容師)歴20年のベテランです。
美容学校卒業後、都内のオシャレなヘアサロンで経験を積み、その勢いで、美容とファッションの最先端・ニューヨークへ単身で渡米。
ヘアスタイリストとしての頭角を現したRは、スーパーモデルたちの担当を任され、異国の地で結果を出し続けました。
今から7年前、帰国したRは古巣のヘアサロンで仕事を再開するも、間もなく退社。
都心から少し離れたベッドタウンで、現在のヘアサロンを開業しました。
なぜ、「世界の最先端」に身を置いていた男が、お世辞にも「ファッションの最先端」とはいえない場所で開業をしたのでしょう。
目次
美容業界の深刻な現状
美容業界について調査をしてみると、なんとも奇妙な結果が現れました。
図1は、「全国の美容業の営業施設数の推移」を実数でみたものです。
美容業は「生活衛生関係営業業種」に該当しますが、多くの同業種が施設数を減らすなか、美容業は平成11年以降、右肩上がりの上昇を続けています[1]。
図1:厚生労働省/美容業の実態と経営改善の方策(抄)p2
https://www.mhlw.go.jp/content/10601000/000453597.pdf
しかし、「美容師国家試験の合格者数」をみると、直近となる令和元年度3月実施の合格者は14,709人であるのに対し、最多合格者数である平成17年度3月実施の合格者は23,861人と、約61%まで落ち込んでいます[2]。
さらに、2019年の「理容業・美容業」の倒産件数は、4年連続で増加しています(図2)。
負債総額をみると、逆に4年ぶりの減少が見込まれることから、倒産企業は小規模・零細規模の「理容業・美容業」であることが推測できます。
図2:東京商工リサーチ/理容業・美容業の倒産年次推移
https://www.tsr-net.co.jp/news/analysis/20191226_02.html
これを裏付けするように、図3の「従業者規模別施設数の構成割合」をみると、1人が32.4%と最も高く、次いで2人28.2%、3人12.3%となり、5人未満の施設が全体の約8割を占めています[3]。
図3:厚生労働省/美容業の実態と経営改善の方策(抄)p7
https://www.mhlw.go.jp/content/10601000/000453597.pdf
極めつけは、「1日平均の来店客数の構成割合」の比較です。
平日・休日ともに「0~4人」が最も高い割合(図4)となっており、平成22年に実施された前回調査の結果と比較しても、0~4人の回答割合が増加し、来店客数の減少を顕著に表しています[4]。
図4:厚生労働省/美容業の実態と経営改善の方策(抄)p12
https://www.mhlw.go.jp/content/10601000/000453597.pdf
これらの結果からも、美容業界の未来が決して明るいものではないことが分かります。
「このままでは、ヘアスタイリストという職業は、ロボットに持っていかれます。僕の職業を守るには、最先端に居つづけることより、すそ野を広げることが重要なんです」
そう話すRはさらに、
「すそ野を広げるためには、子どもたちに『レベルの高いカット技術を体験してもらうこと』が一番効果的なんです」
と教えてくれました。
この言葉を補うように、文部科学省は、幼児期における教育の重要性として次のように示しています。
「人の一生において、幼児期は、生涯にわたる人間形成の基礎が培われる極めて重要な時期である。幼児は、生活や遊びといった直接的・具体的な体験を通して、情緒的・知的な発達、あるいは社会性を涵養し、人間として、社会の一員として、より良く生きるための基礎を獲得していく。」[5]
小さいころから、レベルの高いカット技術を体験することで、「カットの良し悪しの判断力」が自然と身につきます。
極端な例ですが、カリスマと呼ばれるヘアスタイリストが必ずしも、精巧な技術とセンスを持っているとは限りません。
その判断を、顧客自らが行うことで、ヘアスタイリストはより高度で確実なテクニックを求められるようになります。
この積み重ねが、ヘアスタイリストのレベルを底上げする、とRは考えます。
美容業界として、SNSで華やかにファッションを発信していく役割も必要です。
それと同時に、子どもたちに確かな技術を体験してもらうことで、すそ野を広げる役割も必要です。
Rは後者の役割を担う決意をし、帰国したのです。
ニューヨークでは、SNSで何万人もの「いいね」をもらいました。
しかしいま、一人の子どもの笑顔という「リアルな評価」を突きつけられることこそが、Rにとっての究極のモチベーションなのだそうです。
「これほどのリアルはない。子どもは我慢をしないから、顔や態度に正直に表れるんですよ」
いまでは、5歳児がヘアスタイルについて意見をしてくれるとのこと。
「こうしてほしい」と、自らの髪型へのこだわりを伝える子どもが増えてきた現実こそ、Rが目指す「美容業界の未来」の第一歩といえるでしょう。
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櫛の歴史と最先端ファッションのコラボ
ヘアスタイルや美容について、「プロの扱うカテゴリー」と感じている人は多いと思います。
確かに、カットやスタイリングの技術は、専門的に学ばなければ習得は困難です。
しかし、「髪をとかすこと」ならば、誰にでもできます。
美容のすそ野を広げる一環として、「誰もが気軽に美容を体験してほしい」と考えたRは、“櫛”に着目しました。
”櫛の歴史は意外と古く、日本最古の櫛は、約7,000年前の佐賀県東名遺跡のものとされています。
(中略)
江戸時代に入り、それまでまっすぐに垂らしていた女性のヘアスタイルが「結い上げる髪型」になり、調髪、結髪の実用から、櫛・かんざし・笄(こうがい)の需要が高まります。
さらに装飾的な美しさも求めるようになりました”[6]。
いろいろな櫛を調べるうちに、Rは「ひねり髪すき」と出会い衝撃を受けました。
「ひねり髪すき」は、斧折樺(おのおれかんば)という木材を使った木工製品を手がけるアーティストが生み出した作品です。斧折樺は、斧が折れるほどに堅く、水に沈むほど比重がある落葉高木。
過酷な環境で育つため、年に0.2mmしか太くならず、希少価値の高い樹木です[7]。
この斧折樺を使った「ひねり髪すき」は、独特な三次元曲線の湾曲と、美しい艶が特徴で、思わず手で触れたくなるフォルムの櫛です。
Rはこのアーティストに会うため、秋田県まで足を運びました。そこで、ひねり髪すきの誕生秘話や、斧折樺に対する想いを受け取りました。
「日本人の髪は、櫛でとかすと艶がでる。これはアメリカ人では難しい。だからこそ、毎日髪をとかしてほしい。その道具として、この美しい櫛をつかって楽しんもらいたい」
櫛の歴史を変えた、とまでいわれる「ひねり髪すき」は、世界中のヘアスタイリストから熱い視線を注がれています。
最先端のファッションの一つである「ヘアスタイル」と、歴史に新たな風を吹かせた「ひねり髪すき」の出会い。
この伝統と最先端の重なりは、新たな発見であり、守るべき文化であると感じました。
スタイリストという仕事が顧客へ与えるもの
冒頭、失意のどん底にいる筆者に向かって、Rは「毎日を楽しめる髪型」を提案しました。
その意味の真相について、3年経過した今、尋ねてみました。
「僕は、その場の一瞬ではなく、“経過”を楽しんでもらいたかった。つらい思いは続くけど、それが少しでも和らぐように、“経過を楽しめる髪型”をプレゼントしたかった」
顧客の大半は、伸びた髪を整えるためにヘアサロンへ行きます。しかし、プロのヘアスタイリストは、顧客の髪質、毛量、クセ、さらに性格や趣味なども踏まえ、その場限りのオシャレな髪型ではなく、「明日も明後日も、オシャレを楽しめる髪型」を提供するのです。
どんな職業であっても、プロ意識を持って取り組むことは重要です。
自分の職業にプライドを持つためにも、強い意志と、高いレベルでのモチベーション維持について、改めて考えさせられる瞬間でした。
皆さんは、自分の職業の未来について、どのようなビジョンを持っていますか?
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参照
[1]参考:厚生労働省/平成30年度衛生行政報告例の結果の概要(生活衛生関係)p6
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/eisei_houkoku/18/dl/kekka3.pdf
[2]参考;公益財団法人理容師美容師試験研修センター/過去の試験実施状況
http://www.sb.rbc.or.jp/2006/11/post_11.html
[3]参考:厚生労働省/美容業の実態と経営改善の方策(抄)p7
https://www.mhlw.go.jp/content/10601000/000453597.pdf
[4]参考:厚生労働省/美容業の実態と経営改善の方策(抄)p12
https://www.mhlw.go.jp/content/10601000/000453597.pdf
[5]引用:文部科学省/幼児期における教育の重要性
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/04102701/002.htm
[6]参考:櫛かんざし美術館/櫛とかんざし
http://kushikanzashi.jp/collection#section01
[7]参考:ARTFORME/材料の紹介(斧俺樺おのおれかんば)
https://artforme1991.tumblr.com/material