2024年、40年ぶりに新一万円札の「顔」が変わりました。
描かれているのは、数多くの功績や名言を残し、生涯に約500もの会社の設立に関わったといわれている『渋沢栄一』です。
渋沢が100年も前に発表した書籍『論語と算盤』は、現在もなお多くの経営者に読み継がれており、多くの経営哲学に影響を与えてきた人物です。
この記事では、渋沢が生きた時代背景やその生涯、論語と算盤の内容を一部紹介します。
現在の経営理念に活きる考え方となっているため、その要素を学び、組織作りに活かしましょう。
目次
渋沢栄一の『論語と算盤』とは
渋沢栄一は1840年に埼玉で生まれ、多くの会社設立に関与した実業家。
その渋沢が行った講演を1冊にまとめた書籍が、『論語と算盤』です。
初版の発売が1916年と、世に出てから時間が経っているにもかかわらず、いまなお多くの経営者やビジネスパーソンにおすすめされる一冊となっています。
渋沢栄一とは
渋沢栄一は日本初の銀行を設立したのみならず、さまざまな種類の会社設立にも携わった人物であり、明治財界のリーダーとして知られています。
27歳の時にのちの水戸藩主となる徳川 昭武(とくがわ あきたけ)に付き従い、パリの万国博覧会などを見学。
帰国後は国作りに関わり、1873年に大蔵省を辞めたあとは、銀行の頭取を歴任しました。
生涯で500社ほどの会社設立に関与した功績から「日本資本主義の父」と言われ、、1931年に91歳で生涯の幕を閉じました。
日本の近代化をリードし、貢献したとして、2024年から発行された1万円札の肖像画にも採用されています。
論語とは
論語とは、道徳的価値観です。
古代中国の思考家・哲学者である孔子が語った道徳観を弟子たちがまとめた書物であり、人としての物事の考え方や道徳について書かれています。
論語は生き方を学べる教科書であり、例えば、「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」で知られる「温故知新」という四字熟語も、論語から生まれたものです。
渋沢はこの論語を、実業を行ううえでの規範としました。
算盤とは
算盤とは、古来から日本や中国で使われてきた計算道具、いわゆる「そろばん」です。
横に並んだ珠(たま)を上下に動かすことで、足し算、引き算、掛け算、割り算などの基本的な計算を素早く行えます。
渋沢栄一は、算盤を単なる計算道具としてではなく、利益を追求する経済活動、つまり資本主義的な活動としてとらえました。
渋沢は、算盤という実践的な経済活動の象徴と、論語に代表される道徳や倫理観との調和を説いており、それが『論語と算盤』という書籍のタイトルにも反映されています。
『論語と算盤』が長く読み継がれる理由
『論語と算盤』は、資本主義の世の中を、論語をもとにした商業における道徳で律し、公や他者を優先して豊かな社会を築くことを思想としている書籍です。
この書籍が発売されてから長く読み継がれるのには、いくつかの理由があります。
第一に、渋沢が明治期に資本主義の本質を見抜き、500社ほどの会社設立に関わった経験があるからです。
「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢の言葉には説得力があり、彼は単なる理想論を語るのではなく、実践的な知恵として考えを述べている点に注目が集まっています。
第二に、この書籍が提示する「道徳と経済の両立」という考え方が、時代を超えて普遍的な価値を持っているからです。
ビジネスにおいては、利益の追求と倫理観との間で葛藤が生まれる時があります。
渋沢栄一は、その両立が可能であり、むしろ必要不可欠であると説いているのです。
この考えは現代の企業におけるCSR活動や、ESG投資の考え方に通じるものであるため、今も注目を集めているのです。
渋沢栄一が生きた時代とその生涯
渋沢栄一の考え方を取り入れるのが企業にとって有用かを判断する際には、当人が生きた時代や生涯を知るとよいでしょう。
ここからは、渋沢が生きた時代背景と生涯を紹介します。
渋沢栄一が生きた時代
ここでは、渋沢栄一が生きた時代背景を解説します。
幕末〜明治新政府へ
渋沢栄一は江戸時代末期の1840年、埼玉県深谷市の農家に生まれました。
翌年からは老中・水野忠邦(みずのただくに)によって天保改革が始められました。
幕末期である1853年は、ペリー来航をきっかけに日本が開国を迫られ、政治や社会的な混乱が生じていた時代。
その後、江戸幕府によって1867年10月に大政奉還が行われ、明治天皇即位式を経て1868年9月に明治と改元されました。
明治新政府は「富国強兵」「殖産興業」を掲げ、急激な近代化を推進。
1873年の徴兵令、地租改正により、軍事と経済の基盤が整備されました。
欧米の制度や技術を積極的に取り入れながら、製糸業の発展、紡績業の近代化など、産業革命の初期段階を迎え、さまざまな産業や企業が誕生した時代です。
また、国立銀行条例の制定をはじめとして、近代的な経済システムの整備も進められました。
近代国家としての体制を確立
その後、日本が近代国家としての体制を確立し、国際社会での地位を高めていきました。
1889(明治22)年には大日本帝国憲法が発布され、1890年には第一回帝国議会開設により、立憲政治を整備。
このことにより、国民は居住・移転や信教の自由、言論・出版・集会・結社の自由、新書の秘密、私有財産の保護などが認められました。
1894〜1895年には日清戦争、1904〜1905年には日露戦争が行われ、それに勝利した日本は、欧米列強の仲間入りを果たし、経済的にも大きく発展していきます。
続く第一次世界大戦(1914〜1918年)では連合国側として参加し、その後好景気を経験。
その後は重工業の発展や財閥の台頭、都市化の進展など、経済社会構造が大きく変化しました。
近代化の一方で、労働運動や社会主義思想が広がったこの時代では、都市と農村の格差、労働問題など、近代化による問題も生じるようになりました。
渋沢栄一の生涯
ここからは、渋沢栄一の幼少期から青年期以降の生涯を解説します。
幼少期
1840(天保11)年、渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市の裕福な農家に生まれました。
渋沢は、幼い頃から家業である藍玉の製造や販売、養蚕を手伝い、商売の才能がありながら、江戸時代の文学も理解していた父の市郎右衛門から、学問を学んでいました。
栄一が6歳になると、父から漢文の手ほどきを受けるようになり、7歳のときには栄一の従兄弟である漢学者・尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)から、中国の代表的な古典『四書五経(ししょごきょう)』を習いました。
このように栄一は、幼い頃から貨幣経済の発達した土地で家業を手伝いながら、商売に対する才能を磨いていったのです。
青年期以降
やがて渋沢は、幕末に盛んに行われた反幕府運動である尊王攘夷運動に参加しながらも、一橋家に仕え、パリ万博への視察団の一員として渡欧しました。
この時、西洋文明との出会いを通じて、近代化の必要性を強く認識したのです。
渋沢が欧州から帰国した際に、日本は明治へと移り変わっていました。
大蔵省の官僚となった渋沢は、日本の近代的な財政制度の確立を目指しました。
その一例として、アメリカのナショナルバンク制度を模範とした「国立銀行条例」の制定を推進。
1872年にこの条例が制定されると、その翌年に官僚を辞め、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の頭取となり、経済による近代的な国づくりを目指しました。
その後は銀行を拠点に、企業の創設や育成に力を入れ、生涯に約500社の企業と関わりました。
「処世と信条」のポイント
渋沢栄一の書籍『論語と算盤』の第1章には、「処世と信条」が書かれています。
ここでは、「処世と信条」の内容を要約します。
まごころ、思いやりの思想
渋沢栄一は、ビジネスに限らず、日常の人との関わりにおいても、「まごころ」と「思いやり」を重視しました。
また、従業員に対しても、単なる労働力としてみなすのではなく、「適材適所」の信念を説いています。
何か企みを持った人事で人を辱めたり、自分の利益を優先して動かしたりするのではなく、適材を適所に配置することで業績を上げさせる仕組みを良しとしています。
そのことで該当の人材が国や社会に対する貢献をしたら、それこそがあるべき姿であると主張しました。
渋沢自身、人材を自分の権力を築くための道具とするのではなく、「持ちつ持たれつ」であるとし、互いに大きな心で接することを心がけていると記されています。
争いについて
渋沢栄一は穏やかな人柄として知られていましたが、ビジネスにおける争いや対立を完全には否定しませんでした。
なぜなら、国家が健全に発展していくためには、商工業や学業、技術、芸術、外交においても「外国と競争して必ず勝つ」というような意気込みが必要だと考えていたからです。
人材育成についても言及しており、優しい先輩と厳しく叱りつける先輩を例に出しています。
前者は後輩から「ミスをしても先輩が助けてくれる」と思われますが、後者は「あの人に揚げ足を取られてはならない」という気持ちから、全体的に言動が引き締まると説明しました。
これは、識学が提唱する考え方と根本的に一致しています。
識学では、叱りつけるのではなく、正当かつ客観的に評価することを良しとしており、若干の表現は異なるものの、「優しいだけでは、組織は回らない」という考え方は同一です。
「仁義と富貴」のポイント
『論語と算盤』の第4章には「仁義と富貴」が書かれています。
ここでは、「仁義と富貴」の内容を要約します。
実業の考え方
渋沢栄一は、世の中にある商売や工業を「利益の拡大」を目指す行為ということは、否定しませんでした。
むしろ、財産を増やす効果がなければ、公益性がないと述べています。
ただし、利益追求のみが行われる社会になることを危惧し、「利益の拡大は、仁義の道徳に基づいていなければならない」と主張しています。
つまり、利益の追求と、仁義や道徳などの道理を重んじることは、バランスがとれていてはじめて国家や個々の人間が豊かになっていくということです。
渋沢は、「道理」を以下の要素がすべて含まれた状態であると説いています。
- 仁……人を思いやる心
- 義……社会のために尽くすこと
- 徳……人から尊敬される品性
道理が欲望と表裏一体となっていなければ、中国の宋のように衰退しかねないとしています。
換言すると、「事業を発展させたい」「利益を拡大させたい」という欲望は、道理によってしっかりとコントロールされていなければならない、ということです。
金銭感覚
渋沢栄一は「仁義と富貴」のポイントで、金銭感覚についても触れています。
お金はそれ自体に善悪を判断する力はなくとも、善人が持てば良いものとなり、悪人が持てば悪いものとなるとしています。
決してお金を軽視するということではなく、その効力を考えるべきであるという意味です。
また、渋沢は孔子のいう「正当な道を踏んで得られるカネなら、みじめな下働きになってもいいからカネを儲けろ。
しかし、正しい道から外れた手段をとってカネを得るくらいなら、むしろ貧乏なままでいろ」という教えをもとに、その正当性について論じています。
そもそも孔子は富を「絶対的に正当な富」と「不正なことをして手に入れた富」と区別し、道理に反して手に入れた富は、はかないものとみなしています。
渋沢は、中国古代の儒家思想を基本にした儒学者らが、これら2つの富を区別していないという点で、その主張に反論する姿勢を取っていました。
お金を持つ者の義務
渋沢栄一は、お金を持つ者の社会的責任についても言及しました。
なぜなら、彼は富を築くのに苦労しようが、人はひとりでは何も成し遂げられないと考えていたからです。
それゆえ、富が自分だけの専有物ではないと主張していました。
国や社会の助けがあって初めて、人は富や利益を求められ、満足に生きられる。
そのように考えたうえで、富を持つ者はできる限り社会のために援助しなければならないと説きました。
渋沢は、欲深くなって道義よりも富を優先するのが人間の弱点と述べながらも、そうなると人間の大切な精神を忘れて物質の奴隷になってしまうと述べています。
そうして金銭が持つマイナスの側面に惑わされないよう、金銭の真価を発揮させることの重要性を説いています。
この考えは、現代のSDGsをはじめとする貢献活動と共通するものがあると考えられるでしょう。
まとめ
『論語と算盤』は100年も前に発売された書籍であるものの、現代でも人気が絶えません。
近年重要性が増している企業による社会課題の解決や、SDGsの理念などが、まさに『論語と算盤』の考え方と一致していると考えられています。
企業として利益を追い続ける行動は大切ですが、そればかりに目を向けるのではなく、倫理観に基づいて経営することで、投資家や消費者に良い印象を持たれやすくなります。
経営において方向性に迷った際は、渋沢栄一の考え方で学び、企業の理念を確立しましょう。