2020/07/15

「働きたくない人」との付き合い方。

厳然たる事実として、世の中には「仕事が大好きな人」も多いが、それ以上に「できれば働きたくない人」もいる。

私は前職、様々な企業に出入りすることが多かったので、企業規模や業種業界を問わず、こうした「できれば働きたくない人」を本当にたくさん見てきた。

彼らが仕事を嫌う理由は様々だ。

能力不足で仕事についていけず、仕事が嫌いになってしまった人。
これ以上の出世の見込みがないので、できるだけ仕事をしないようにしている人。
だらしのない人。
職場の人間不信。
……

実に様々な話を見聞きした。

だが、彼らの仕事へ対する反応は、どんな理由からにせよ、ほぼ一様だ。

言われたこと「だけ」やる
成果には責任を持たない
仕事を増やしたくないので現状維持にこだわる

この三つのあわせ技が、

「言われたとおりにやりましたが、成果は出ませんでした。これ以上なんともなりません。」
という言葉になる。

さて、このような発言をする社員は大抵「問題社員」と目されているか、もしくは「あの人だから…」と諦められているか、どちらかである。

かといって、仕事を頼んでも嫌そうな顔をする、ロクに頑張らない、改善を支持するとすぐに反発してくる、ということで、半ば上司も諦め気味になっている。

さて、このような社員をどのように扱うべきなのだろうか。

 

基本的に人は「能力相応」の仕事しかできない

 

「干して自主退職に追い込め」という、過激な人も中にはいるだろうが、
まあ、待ってほしい。

彼にも生活があるし、人の尊厳を傷つけるようなことをすれば、猛烈に反発する人もいる。
争いは双方に不利益で、何ももたらさない。

だから、少し考え方を変えるべきだ。

では、どのように考えたらよいか。

前提として、まず仕事は、スポーツや試験と同様に、「能力相応」の結果しか出せないことを、抑えておく必要がある。

これは、残念ながら精神論では解決できない。
「頑張りが足りない」とか、「もっと努力すれば」とか、そういった幻想は捨てるべきだ。

大人になれば、人の能力は大して成長しないし、成長するとしても、数年単位で極めてゆっくりとしか成長しない。
だから、仕事が彼にとってはむずかしすぎるのだ、とまず認識しよう。

したがって「仕事をしたくない人」に、頑張れと言ったり、努力しろと言ったりしても、成果が上がるどころか、むしろ逆効果であり、基本的には「多くを求めない」という考え方が正しい。

 

人の能力は千差万別

 

ただし、「こいつの能力は低いから、もう絶望的じゃないか」と、諦めるのは時期尚早だ。

なぜなら、人の能力は千差万別で、その能力は「活かし方次第」というのもまた事実だからだ。

ちょうど、100メートル走で金メダルを取ることのできるウサイン・ボルトでも、プロバスケットボールでは活躍するのが難しいように。
ウサイン・ボルトには、ボールを追いかけさせるより、ひたすら真っすぐ走らせるほうが結果を出す、ということだ。

だから「こいつは駄目だ」と判断する前に、「他に使いみちは無いのか」を検証しなくてはならない。

そして、どんな能力があるのかを見極めるためには、様々な仕事を与えてみればすぐに分かる。

お客さんと話すのが得意な者、書きものが得意な者、データ解析が得意な者……

今の仕事がダメなら、別の仕事。
別の仕事がダメなら、また別の仕事を与えてみて、彼の生み出すものを観察しつづける。

プログラミングがだめでも、ドキュメント管理に素晴らしい能力を発揮する人もいる。
テストがヘタでも、お客さんと話すのが素晴らしくうまい人もいる。
飛び込み営業が下手でも、セミナーをやらせれば一級品、という人もいる。
文章を書くのが絶望的に遅くても、データを見るのが得意、という人もいる。

そしてある時「労せずに、素晴らしい仕事ができる領域」がポツリと見つかれば、彼はもはや「お荷物」ではない。エキスパートである。

もちろん、中には「本当に易しい仕事」しかできない者もいる。
実際、「データの転記」や「定型文の送付」しかできない人が過去にいた。

だが、むやみに難しい仕事を与えて、できないことを叱責するより、「易しい仕事」であってもきちんと遂行できれば、仕事への態度も必ず徐々に変わってくる。

 

みんな同じ仕事を与えて、「ヨーイドン」は愚の骨頂。

 

だから「できれば働きたくない人」に対して、多くの会社は見切りが早すぎる、もしくは「得意なこと」を試してもいないことに気がつくのではないだろうか。

一番悪いのが、「一律」に採用をし、同じ仕事を与えて「ヨーイドン」で競争をさせることだ。

そうしたら必然的に、その仕事が得意な「勝ち組」と苦手な「負け組」ができる。
同じくらいの努力で、かなりの差がつく。

そんな状況で「負け組」になったとしたら、大抵の人は「できれば働きたくない」と思うのは当然だ。

組織は「お互いの弱みを、強みでカバーしあえる」から強いのであって、同じ仕事をみんなで競争してしまっては、逆に組織は弱体化してしまう。

「負け組」の人々には、別の仕事、別の成果を求め、彼らが惨めな思いをしなくて済むようにするのも、立派なマネジメントの一つだ。

 

個人ごとに、異なった「成果」を設定しなければならない

 

そのように組織を運営していくと、結局は個人別に細分化された「成果主義」に行き着く。

「みんなが同じ仕事をしていれば、なんとなく誰が何番目かわかるよね」ではなく、一人ひとりに違うことを求めれば、個別に成果を定義する必要があるからだ。

これは昨今の「テレワーク推進」の方向性とも一致する。
テレワークでは「プロセス」や「がんばり」が非常に見えにくいため、「結果」に着目せざるを得ないからだ。

しかし、「成果主義への移行」をやるというのは、会社にとっても大きな負担である。

「もともと成果主義へ移行しようと思っていた」のなら良いが、「できれば働きたくない人」だけのために、全体の制度にまで話を波及させるのは、どう考えても、牛刀をもって鶏を割くことに等しい。

しかし、「会社のお荷物」と呼ばれるような人を減らし、彼らの尊厳を回復するためには、そういった制度が不可欠である。

であれば、この機会に、会社の体質を改めてみてはどうだろうか。

昔、こんな事があった。

ある会社の営業部で、とにかく「営業」がヘタな人物がいた。

彼は頭は悪くなかったが、面倒くさがりで、かつお客さんの心を掴むのがヘタだったので、成績はサッパリ、同期のみならず、後輩にもあっさり追い抜かれてしまった。

最初の2〜3年は、それでもなんとか頑張ろうという姿勢を見せていたのだが、3年目に、2年下の新人にすら成績で勝てなくなると、彼はやる気を失った。

上司からの叱責も暖簾に腕押しの状態で、給与は上がらず、完全に部署のお荷物状態。
誰もが腫れ物に触るように接するようになってしまっていた。

ところが、新しく彼の上司になった人物が、彼に依頼を出した。
「セミナーのテキストを作ってくれ」と。

内情を言えば、他の人が忙しくて、誰にも頼めなかっただけだった。
また、新任の上司だったので、変な先入観もなかったのだろう。

ただ、上司も「期待はしてなかった」という。

しかし、やる気のない彼が作ったものにしては、なかなか上等なものが上がってきた。
上司は驚いていた。

「彼がこんなことが得意だとはね。」

それ以来、上司は彼を「営業資料作成担当」として、積極的に用いるようになった。

営業部に「資料作成」という評価の基準はなかったが、上司はトップに掛け合い、それなりの評価を得られるように、配慮した。

次第に彼はやる気を取り戻し、派遣社員やデザイナーを束ねる一つのセクションの長として活躍するようになった。

一人ひとりに対して、「成果に従って評価する制度」を導入してしまえば、そうした社員に対して「働きに見合った報酬」を設定し、「得意なこと」で、能力を発揮する機会を与えることができる。

人を活かす、とは本来、そういう事を言うのではないだろうか。