岩崎弥太郎は、日本の実業家であり三菱財閥の創業者です。
上級武士から屈辱的な差別を受け、農民から蔑まれるほど低い身分であったのにも関わらず、明治の政商として巨万の富を築いた人物として有名です。
岩崎弥太郎は坂本龍馬や渋沢栄一とも交流があり、明治維新において非常に重要な役割を担った経済人です。
なんとなく「お金持ち」というイメージがある岩崎弥太郎ですが、その生涯やどのようにして成り上がっていったのかをあなたはご存知でしょうか?本記事では、岩崎弥太郎の生涯や人物像を象徴するエピソードなどを紹介していきます。
<<あわせて読みたい>>
マーク・ザッカーバーグはどんな人?人物像や成功した秘密の全てを解説|世界を動かすユダヤ人経営者目次
岩崎弥太郎が出世するまで
武士としてかなり身分が低い家に生まれ、幼い頃から極貧生活を送ってきた岩崎弥太郎は、どのようにして莫大な富を築いたのでしょうか?
ここでは、岩崎弥太郎の生涯を見ていきます。
地下浪人の家に生まれ、差別と貧困のなかで育つ
岩崎弥太郎は明治維新から33年前の天保5年(1835年)に、「地下浪人(じげろうにん)」の岩崎家の9代目として生まれました。地下浪人とは、土佐藩における身分の一種で、上士身分の浪人と区別してつけられた呼称です。
当時、岩崎家は非常に貧しく武士からは差別され、農民からも蔑まれていました。貧困と差別のなかで育った岩崎弥太郎は強い反骨精神を持ち合わせており、立身出世を目指していました。そんな岩崎弥太郎がまずしたことは、学問を究めることです。
岩崎弥太郎は幼い頃から文才に恵まれ、14歳頃には藩主山内豊熈(やまうち とよてる)に漢詩を披露して、その才能を認められています。そして、土佐で最も高名な儒学者、奥宮慥斎(おくのみや ぞうさい)に学びました。
江戸で安積艮斎の塾に入塾
安政元年・嘉永7年(1854年)、岩崎弥太郎は奥宮慥斎の従者となり、21歳で江戸に遊学するチャンスを掴みます。
そして安政2年(1855年)に駿河台にあった安積艮斉(あさか ごんさい)の「見山塾」に入塾しました。安積艮斎は江戸末期の朱子学者であり、安積艮斎が江戸で開いた私塾では、岩崎弥太郎をはじめ吉田松陰や高杉晋作らが門人として学んでいます。
ここでも岩崎弥太郎は優秀な成績を収めていたようです。両親は貧しい生活を送っていたにもかかわらず、弥太郎の遊学費用を賄うために先祖伝来の山林を売ってお金を出したと言われています。
しかし、安政3年(1856年)に父親の岩崎弥次郎が酒の席で喧嘩をして投獄されてしまったことを知り、江戸で遊学していた岩崎弥太郎は勉強を切り上げて土佐へと帰国することになりました。
このとき、岩崎弥太郎の人物像がよくわかるエピソードがあるので、後ほど詳しく見ていきます。
吉田東洋の少林塾に入塾
その後、岩崎弥太郎は吉田東洋が「蟄居(ちっきょ)」中の身でありながら開いていた少林塾に入塾しました。
蟄居とは中世から近世、特に江戸時代に科せられた刑罰であり、武士または公家が閉門のうえ、自宅の一室に謹慎させられることを指しています。
少林塾には、後に明治政府で板垣退助たちと活躍する土佐藩士の後藤象二郎も入塾しており、岩崎弥太郎は後藤象二郎と吉田東洋との出会いによって出世していくのです。
岩崎弥太郎の活躍
あるとき吉田東洋は、後藤象二郎に与えた宿題の答えが非常に優れていたため、これを不審に思いました。東洋が象二郎に問い正したところ、象二郎は、答えを考えたのは自分ではなく岩崎弥太郎であると告白したのです。
これを機に吉田東洋は岩崎弥太郎の才能を認め、一目置くようになり、弥太郎は土佐藩の役人となりました。このように、身分に関係なく才能を認める吉田東洋によって、岩崎弥太郎はその才能を遺憾なく発揮していくことになります。
開成館長崎商会の主任に就任
その後、岩崎弥太郎は開成館長崎商会という土佐藩の商組織の主任になりました。この時、貿易商人であるウォルシュ兄弟や武器商人のグラバー、クニフラー商会と取引をしています。
欧米商人から武器や船舶を輸入したり、木材や強心剤・防腐剤として使われていた樟脳・鰹節など土佐の物産品を輸出していました。このように欧州の各商社と取り引きをして、岩崎弥太郎はビジネスの腕を磨いていったのです。
一方、 慶応2年(1866年)には、坂本龍馬の仲介により薩長同盟が成立し、翌年には坂本龍馬の脱藩が許されます。これにより、「亀山社中(かめやましゃちゅう)」は土佐藩が引き継ぎ、場所も隊員もそのまま「海援隊」となったのです。
亀山社中とは、貿易や開運などを行いながら倒幕運動への参加を企図した政治集団であり、日本最古の商社と言われています。
海援隊の会計を任された岩崎弥太郎
岩崎弥太郎はこの海援隊の会計を任されていました。
海援隊に用いられていた「いろは丸」は45馬力・160トンで、伊予大洲藩から借りて初航海に出ました。しかし150馬力、887トンの紀州藩船明光丸と衝突してしまい、いろは丸は沈没します。
このときに、岩崎弥太郎や坂本龍馬、後藤象二郎が交渉した結果、紀州藩が7万両の賠償金を支払うことで話し合いは収まりました(いろは丸事件)。相手が徳川御三家の紀州藩であったことも関係し、交渉は非常に困難だったようです。
実際、坂本龍馬は「紀州藩と一戦交える覚悟ゆえ、万が一の時は妻をよろしく」という旨の手紙を送っています。
<<あわせて読みたい>>
【何がすごい?】イーロン・マスクとはどんな人?性格や経歴を解説!明治維新後、三菱を創業した岩崎弥太郎
明治維新後、政府は藩を無くすために藩営の事業を廃止しようとしたため、明治2年(1869年)10月、土佐藩首脳の林有造は海運業私商社として土佐開成社、後の九十九商会を立ち上げます。
海援隊の土居市太郎と長崎商会の中川亀之助が代表となり、岩崎弥太郎は事業監督を担当しました。明治4年(1871年)には廃藩置県によって土佐藩官職位を失った岩崎弥太郎は、九十九商会の経営者となります。
九十九商会では藩船3隻払い下げを受けて貨客運行を開始。これにより大きな利益をあげた岩崎弥太郎は鴻池や銭屋に抵当として抑えられていた藩屋敷を買い戻しています。
九十九商会を「三菱商会」に改称
九十九商会は経営幹部であった川田、石川、中川亀之助の「川」の字をもとに、明治5年(1872年)に、「三川商会(みつかわしょうかい)」という名前に社名を変えました。
その後、明治6年(1873年)には三川商会は「三菱商会」に改名し、岩崎弥太郎個人の会社となります。
今では誰もが目にしたことのある三菱のスリーダイヤモンドマークは、土佐藩主の山内家の三葉柏と岩崎家の三階菱の家紋を組み合わせてできたものです。
当時海運最大手の国有企業に対抗する
当時、海運業最大手は国有企業だった「日本国郵便汽船会社」でした。
日本国郵便汽船は横柄な態度で有名で、あまり良い評判はありませんでした。そこで、三菱商会はお店の正面に「おかめのお面」を掲げます。
おかめのお面には「店員たちがお客様に温和な顔つきで接し、お客様に和やかな気分を与えるため」という願いがこめられていました。
このおかめのお面を見た福沢諭吉は「店内に愛敬を重んじさせるのは、近ごろの社長にはできぬこと。岩崎は商売の本質を知っている」と感心したと言われています。
実際、三菱商会の社員はお客に対してとにかく笑顔で接して、お客様本位だと好評を得ていました。
台湾出兵の仕事を受けたことでさらなる飛躍を遂げる
明治7年(1874年)、明治政府は台湾出兵をする際に、アメリカやイギリスの船会社を利用して兵隊を輸送しようと考えていましたが、両国とも中立の立場であったため断られてしまいます。
そこで、国有企業の日本国郵便汽船会社に軍事輸送を頼んだところ、こちらも断られてしまいました。日本国郵便汽船会社が台湾出兵のために船を使うことで、その間に現在の顧客が三菱商会に移ってしまうことを恐れたためです。
そこで、明治政府は三菱商会にこの仕事を依頼したところ、「国あっての三菱」と岩崎弥太郎は快諾しました。この仕事の結果、翌年にはその功労として政府から大型船3隻を委託され、三菱商会が持つ大型船は13隻となったのです。
こうして三菱商会は新政府の軍需輸送を独占することで巨万の富を築き、全国汽船総トン数の73%を手中に収めています。これに伴い、海運業から多角化することで三菱財閥の基礎を築きました。
胃がんで亡くなる
明治11年(1878年)、紀尾井坂の変で、三菱を支援してきた大久保利通が暗殺されます。その後、明治14年(1881年)には最大の後援者だった大隈重信が失脚し、岩崎弥太郎はピンチに陥りました。
大隈重信と対立していた井上馨や品川弥二郎も三菱への批判を強めていき、渋沢栄一も敵に回してしまい、岩崎弥太郎は共同運輸会社と海運業をめぐって戦うことになります。これにより、運賃は競争が始まる前の10分の1にまで引き下げられてしまいました。
この戦いの最中、岩崎弥太郎は明治18年(1885年)2月7日に胃がんで亡くなりました。50歳の人生に幕を閉じたのです。
岩崎弥太郎の死後、三菱商会はダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となります。
<<あわせて読みたい>>
自己実現に突っ走り、スーパーよく働く「創業社長」が、組織をまとめるために知っておかなければならない、たった一つのこと。岩崎弥太郎の人物像がわかるエピソード
ここまで岩崎弥太郎の生涯を見てきました。
ここでは、岩崎弥太郎がどんな人だったかがわかる下記のエピソードを紹介していきます。
- 牢屋のなかで算術を学ぶ
- 渋沢栄一と対立する
- 参勤交代を見て未来を予測する
- 日本で初めてボーナスを支給する
それでは1つずつ解説していきます。
牢屋のなかで算術を学ぶ
岩崎弥太郎は江戸へ遊学中に、父親が酒の席で喧嘩をして投獄されたことを知り、帰国しています。
実はこの時、岩崎弥太郎自身も投獄されているのです。
岩崎弥太郎は父親の冤罪を奉行所に訴えますが、喧嘩した相手がすでに奉行所に手を回していたため相手にされませんでした。そこで岩崎弥太郎は奉行所の門柱に「官以賄賂成 獄因愛憎決」という落書きをしたのです。
その意味は「官は賄賂を以って成し、獄は愛憎に因って決す(奉行所は金で判決を下す)」といったもので、これにより彼も投獄されてしまいました。
ここからが岩崎弥太郎の凄いところなのですが、牢屋のなかで一緒だった商人から算術や商法を学び、その後のビジネスに役立てたのです。まさに「ただでは転ばない男」といえますね。
渋沢栄一と対立する
「日本資本主義の父」と言われる渋沢栄一ですが、彼は岩崎弥太郎と対立していました。
大河ドラマ「晴天を衝け」でもその様子が描かれていました。渋沢栄一と岩崎弥太郎は同じ実業家でしたが、二人の哲学はまるで異なっており、両極端の生き方を貫いていたのです。
岩崎弥太郎にとって最も重要なことは自社の利益でした。岩崎弥太郎は、市場を独占することは利益を得る手段でもあるため問題ないという考え方を持っていました。
一方で渋沢栄一は、全ての民にお金が流れるような社会を目指して活動を続けてきました。
こうした異なる考え方がぶつかったのが、2人が舟遊びをしたときです。渋沢栄一は公益を重んじる「合本主義」の立場で説得していましたが、岩崎弥太郎は個人の利益を重んじる「先生主義」を貫いていました。
激しい論争が繰り広げられた後、渋沢栄一は席を立ち、帰ってしまいます。これ以降、2人は犬猿の仲となってしまったのです。
参勤交代を見て未来を予測する
江戸で遊学していた際に、岩崎弥太郎は参勤交代による大名行列を見て「こんな形だけのものに力を入れて、いつまでも平和を夢見ているようでは、もう徳川の時代も終わるのではないか」と言い放ったとされています。
その頃は、ペリー来航のあとでアメリカに開国を迫られた時期であり、岩崎弥太郎はそんな時代においてまだ危機感を抱いていない幕府や幕臣に失望したのです。
日本で初めてボーナスを支給する
明治9年、世界最大の海運会社のP&O社が日本に進出してきました。
これに対抗して三菱商会は徹底的なリストラと経費削減を実施し、従業員は給与の3分1を返上します。こうして会社が一丸となって対抗した結果、ついにP&O社は日本からの撤退を決めました。
岩崎弥太郎はこの勝利は従業員のおかげであるとして、各人の仕事ぶりを査定した上で、賞与を与えています。これは給与一ヶ月分に相当し、日本史上初のボーナスとされています。
<<あわせて読みたい>>
歴史上の人物に学ぶリーダーシップ「決断するリーダー」の姿とは?まとめ
ここまで岩崎弥太郎の生涯と、その人物像がわかるエピソードを見てきました。
岩崎弥太郎は貧しく身分の低い家に生まれるものの、類まれなる商才に恵まれ、出世してきました。そしてついには現代の日本を代表する三菱を創業するに至ります。
腹黒さも兼ね備えていたためイメージが悪い人も少なくありませんが、彼の人生はまさに波乱万丈と言えるでしょう。
<<あわせて読みたい>>
【あなたはどれ?】リーダーシップは6種類!マネジメントのタイプなどそれぞれの特徴を徹底解説!