2~3世紀の激動の中国を描いた歴史書『三国志』は、今でも大勢の人を魅了し続けています。そんな『三国志』のなかでとりわけ人気が高い人物といえば、蜀の天才軍師諸葛孔明でしょう。今回は孔明にまつわる有名なエピソード、「泣いて馬謖を斬る」について、識学の視点からその正当性について解説したいと思います。
目次
諸葛孔明とは
『三国志』は、漢王朝による一国支配の均衡が崩れた後に、魏、呉、蜀の三国が中国統一を目指して覇権を争う様子を描いています。三国のなかで、漢王朝の復興を大義に掲げる国が蜀であり、蜀の将軍劉備に仕えた最強のブレインが諸葛孔明です。
劉備は孔明の力を借りるため、庶民である孔明のもとを三度も訪れ、誠意を見せたと伝えられています。この有名な「三顧の礼」に表れる劉備の人柄に引かれ、孔明は蜀に軍師として仕えることを決めました。
孔明は常に冷静沈着で頭の切れる人物だったと言われています。数々の奇策を考案し、戦を制していきました。劉備亡き後は彼の思いを継いで蜀を率い、大国魏に戦いを挑んでいきます。
今回のテーマである「泣いて馬謖を斬る」は、そんな魏との戦の一つ、「街亭の戦い」で生まれたエピソードです。この戦において、孔明は若手の有能な部下である馬謖を指揮官に任命しました。これは抜擢人事であり、実績のない馬謖に経験を積ませるためとも考えられています。
馬謖は頭脳明晰で、孔明にも優れた進言をしてきたとされています。孔明は、ゆくゆくは自らの後任にしたいと思っていたのかもしれません。しかし、この馬謖の起用が事件を引き起こしてしまうのです。
馬謖の失策
指揮官となった馬謖は、山頂に軍勢を敷くという、孔明から「絶対にしてはいけない」と言われていた戦術を部下の忠告も聞かずに強行しました。当然ながら山麓を敵に抑えられ、水源と兵糧を絶たれてしまいます。飢えに弱り切ったその軍勢は脆くも敵勢に一網打尽にされてしまいました。
失った兵の数は1万5000にのぼると言われています。この馬謖の失策により、孔明の陣営は一気に不利な状況に追い込まれてしまいました。
孔明は馬謖を斬首刑とします。そして自らも帝に三階級降格を申し入れ、処分を受けました。
泣いて馬謖を斬る
「なぜ貴重な人材を処刑したのか」と問われたとき、孔明は涙ながらに、「規律を守るためには仕方がない」と語ったとされています。これが、「泣いて馬謖を斬る」という逸話になりました。孔明は常に法を重んじ、公明正大に法を適応することを何よりも優先したのです。
このエピソードには賛否両論あります。部下の失策、失敗を許す寛容さがなかった孔明を、「だから中国を統一できなかったのだ」と厳しく批判する歴史家もいますし、「本音と建て前を使い分けられない堅物だ」と評する人もいます。当時も、孔明の決断を批判する声はあったでしょう。
しかし、孔明は批判が出ることも承知で大切な部下を処刑したはずです。では、馬謖を斬った後、蜀の軍勢はどうなったでしょうか。
実は、蜀軍は内部崩壊することはなかったのです。そして、その後も魏と戦い続けました。孔明が配下からの信頼を失わず、軍の士気も下がらなかったのでしょう。そうでなければ部下を斬首に処した人間に付いていくなど誰も考えないはずです。
刑は刑無きを期す
なぜ、部下を斬り捨てた孔明から兵士たちの心が離れなかったのでしょうか。それは彼の公明正大さによります。孔明は誰に対しても平等にルールを適用しました。自らが魏との戦に臨む際、劉備の息子に残した手紙にも「部下にはルールをもって平等に接すること」とつづっています。
馬謖が犯した過ちは、守ろうと思えば誰でも守れる約束を破ったことでした。重要なことは、これが例えば相手の存在や自分の能力によって、可能かどうかが判然としない約束を果たせなかった場合とは違うということです。
街亭の戦いで別動隊を率いた王平という武将は、孔明の言いつけを守り山麓に陣を構え、蜀軍が撤退する際には殿として奮闘、魏の追撃を許さなかったことから出世し、次の戦果を挙げるチャンスを与えられています。誰でも守れる約束を守らないということは、明らかに意思を持っての違反行為であり、それは組織においては絶対に許してはならないことなのです。
『韓非子』という中国の思想書のなかに、「刑は刑無きを期す」という言葉があります。罪人を処刑しても罪が消えることはなく、それ自体に意味はないが、それを見せしめにすることで同じ罪を犯す人がいなくなることを期待して刑を執行するという意味です。たとえかわいい部下であっても、いや、むしろそうであるからこそ孔明は罰を与えなければいけなかったのです。
そして、自らも罰を受けたことは重要です。企業でも、ミスをした部下だけがとがめられ、上司は何も問われないとなると、「とかげのしっぽ切り」の様に捉えられて、疑念の元になります。
部下をしっかり罰する ルール違反させた方に責任がある
「泣いて馬謖を斬る」の状況を現代の企業に当てはめてみるとすれば、ルール違反をして取引先と大問題を起こし莫大な損失を出した部下を、殺すとまでは当然できませんが、懲戒解雇し、上司である自分は降格したというところでしょうか。ルール違反をとがめ、罰を与えることは重要です。一方で、能力などによりできる、できないことがある約束、つまり売り上げや利益などの目標の未達には報酬の減額といった措置は当然必要だとしても、寛容に次の機会を与えるべきでしょう。
約束を守ることに対しての理由は様々あります。尊敬できる上司だから、好きな会社だから、仕事だから。100人いれば100通りの答えがあるでしょう。
しかし、ルールを守らない、約束違反をするのはなぜかといえば、「恐怖を感じていないから」というシンプルな理由しかありません。日常生活において法律違反をしないのは罰があるからです。
つまり、違反に対する恐怖は日常にあり、これに対しては強いストレスを感じることもなく当たり前に受け入れていることなのです。したがって、会社においても罰が行われることは当たり前の恐怖であり、それは公明正大に行われるべきものです。そこで生まれる秩序がチームを強くするのです。
ルール違反を許してしまえば、「別に守らなくても大丈夫だ」という誤解を生みます。部下のルール違反は誤解させている上司の罪でもあります。ルールを守らない部下を持つ上司は、今後必ず守らせる責任を負いながら自身も罰を受けるべきなのです。
「泣いて馬謖を斬る」。泣くのは感情があるからです。しかし、その感情を超えてでもしなければいけない責任をリーダーは常に負っているのだということを自覚し、斬ることから逃げたり、ためらったりしてはいけません。その迷いが結局部下からの疑念となり、自らを殺すことになるのです。