オンライン授業が終わり、学生たちがZoomの画面から1人、また1人と消えていく中、ひとりだけ最後に残った学生がいました。
南米のある国から来たTです。
「先生、ご家族の手術、無事に終わってよかったです」
「ありがとうございます」
「それだけ伝えたかったので・・・」
「どうもありがとう!」
一瞬、照れたように小首を傾げ、
「じゃ、また来週!」
手をひらひらさせて消えていく彼の笑顔を見送りながら、心がほのぼのと温まるのを感じました。
最近、家族が手術を受けることになり、そのサポートのため自宅を離れていた筆者は、ふだんは対面の授業をZoomに切り替えていたのでした。
筆者が大学で担当するビジネス・ジャパニーズクラスの対象者は外国人留学生。
Tの国も含め、これまで受講した学生たちの国は十数か国にわたります。
皆、日本の企業で働きたい、あるいは働くかもしれない学生たちです。
授業の学習項目は就活の流れと方法、キャリア・プランニング、ビジネスマナー。
実はそのどれをとっても、日本のやり方は国際的にみてかなりユニークであることをご存じでしょうか。
授業中、筆者の求めに応じて言ってくれる感想や、授業の最後に書いてもらう「振り返りシート」は学生たちの驚きの言葉で溢れています。
筆者は、留学生を対象とした日本語教育に携わることによって、異文化を通して自文化を再認識する機会に恵まれています。
それは、いわば「外側からの目」をもって自国のビジネス・マナー、あるいはビジネスシーンにおけるコミュニケーションを見つめるということにも通じます。
日々行っていることは、いつしか習い性になり、それが当たり前になって、疑問を抱くこともなくなってしまいがち。
そのうちに、そのことの本来的な意味や本質を見失って、形骸化し、時には害を及ぼてしまうことすらあるかもしれません。
そんなとき、新たな観点から日頃の「当たり前」を見つめ直してみると、意外なことに気づき、変革の糸口がみつかることがあります。
では、そこから見えてきた日本語コミュニケーションの特異性と危険性とはどのようなものでしょうか。
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目次
謙虚に振舞って、相手を立てる
営業はもちろんのこと、マネジメントもマーケティングも、イノベーションでさえ、コミュニケーションなしには成立しません。
では、その基本は?
相手を思いやり、相手のことを考えて行動する。
相手に不快な思いをさせないように、相手を傷つけない言葉を選ぶ。
謙虚に振舞って好感を得る。
それは、日本人の得意技でもあります。
なにしろ1,000年以上も前に、かの清少納言でさえ「相手の身になって気遣いをする、それがマナーの真髄ですよ」と言っているのですから。
いくつもの時代を越え、そうしたスキルを磨き続けてきた結果、私たちのコミュニケーションはどうなったのでしょうか。
ある言葉に字義通りではない意味を含ませる。
多くを語らずに、沈黙あるいは行間に意味を託す。
あるいは、それらの形(言葉)にならない意味や含意を巧みに掬い取る。
以心伝心、あうんの呼吸。
例えば、相手からの誘いを断るときは、断る自分より、断られる相手の立場や気持ちに配慮します。
「私にはもったいないお話なのですが・・・」
と自分を下げて、相手を立てる。
「今晩、映画を見に行きませんか」
「すみません、今晩はちょっと・・・」
は、初級レベルの日本語教科書に載っている、定型表現。
全てを語らずとも言いさしでも、言わんとしていることが十分に伝わります。
「いいえ、まだまだです」
日本語教科書に載っている定型表現といえば、相手に日本語を褒められたときの、こんな表現もあります。
成果を褒められたとき、
「いいえ。〇〇さんのおかげです」
「え、そんなことないですよ。××さんの実力ですよ」
「いえいえ、○○さんのお力添えがなかったら、とてもとても」
「そんなあ、ご謙遜。本当に××さんの実力ですって!」
と永遠ループを思わせる会話になることもありますね。
あくまで謙虚に振舞って、相手を立てる。
相手に敬意を示して配慮する。
それは、高度に磨きぬかれた奥ゆかしい特性です。
では、何が問題なのでしょうか。
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会議の場での曖昧表現
「本当に面白いと思います。僕にはそういう発想がありませんでした」
冒頭のTがそう感想を述べたのは、こんな表現に触れたときです。
「お電話が遠いようですが」
電話口で相手の言うことがよく聞こえない、そんなときの表現です。
「聞こえない」と言えば、暗に「あなたの声が小さい」と相手を責めるような響きになりかねない。
そこで、相手の声の大きさを問題にせずに、電話のせいにする。
これには大抵の留学生が唸ります。
ただ、一方で、こんなことをいう留学生もいます。
「日本人はそんなにいつも気を使って、疲れないんでしょうか」
「そうですねえ、実は私も少し疲れるときがあります・・・」
でも、疲れるよりもっと深刻な事態が生じることがあります。
その原因は、曖昧な表現。
日本企業に就職した元留学生が、こんなことを言っていました。
「一番困っているのは、周りの人が何を言っているのか、わからないことです。日本語自体はわかるんですが、それで何を伝えたいかがさっぱりわかりません。特に困るのは会議のとき。誰がどんな意見を言っているのか、それに誰が賛成で誰が反対なのか、結論は何か、それぞれの仕事に対して誰がどんな責任をもつのか、全然わからないんです・・・」
ちなみに、彼の日本語力は超上級レベルです。
この話を聞いて、思い当たることがありました。
会議の場で、こんな表現を耳にしたことはないでしょうか。
「そうですねえ、方向性はそれでいいと思いますが」
「おっしゃるとおり、それでいいかもしれませんね」
「おそらく、それでいけるんじゃないでしょうか」
「次の会議までに具体的に考えておいた方がいいかもしれませんね」
反対なのでしょうか、賛成なのでしょうか。
できるのでしょうか、できないのでしょうか。
次の会議までに具体的に考えるのは必須なのでしょうか、それとも任意なのでしょうか。また、考えておくのは、誰でしょうか。
会議では、自分の意志や主張を、できるだけ誤解がないように、明確にわかりやすく伝えることが必要です。
そうでなければ、双方の理解に齟齬が生じて、後で大きな問題が発生することになりかねません。
それに、明確に伝えないということは、責任の在り処まで曖昧にするということにつながります。
ここに、コミュニケーションの難しさがあります。
日本語による表現では、直接的ではない曖昧な表現が丁寧さにつながります。
曖昧な表現というのは、いくとおりの意味にもとれて、そのどの意味なのか判然としない表現のことです。
相手を尊重するために、そうした曖昧表現がデフォルトになっていると、明快に意思表示するべき場面でも、いつもの曖昧な表現を使ってしまいがちです。
しかし、それでは伝えるべきことを明確に伝えることができません。
ただ、ここで注意すべきことは、次のような曖昧表現もあるということです。
「できるだけ早く取りかかります」
「ちょっと時間がかかるかもしれません」
どちらも、具体的な数値を示さないため、「できるだけ早く」がいつを指すのか、「ちょっと時間がかかる」というのは、数時間なのか、数日なのか、あるいは数週間、数か月なのかわかりません。
そういう意味で、これらも曖昧な表現なのですが、これは、具体的な数値を示すだけで解決する問題です。
ところが、先にみたようなタイプの曖昧表現は、それとは違います。
相手に敬意を示すためにわざわざ曖昧な表現にしているため、曖昧表現をやめて、より直接的な表現をしようとすると、相手に失礼になるかもしれないというジレンマがあるのです。
ビジネスマナーは、ビジネスパーソンの行動特性の集大成でありエッセンスです。
したがって、そこには、ビジネスパーソンがビジネスをどう捉えているのか、そのマナーによって何を実現しようとしているのか、何をヨシとし、なにを回避しようとしているか等々の価値観が内包されているはずです。
しかし、その反面、ビジネスマナーがビジネスパーソンの行動特性を規定しているという側面もあります [1]。
これと同様に、言葉は、あることを伝えるため、表現するために使われますが、反面、その言葉によって行動が規定されるという側面もあるのです。
では、どうしたらいいのでしょうか。
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率直さと敬意とは両立する
ここで間違ってはならないのは、日本語そのものが曖昧な言語というわけでは決してないということです。
日本語はいくらでも率直にストレートに表現できる言語です。
例えば、上司から部下へ、先輩から後輩へ何かを指示するときや伝えるとき、あるいは家族や友人など気の置けない人とのコミュニケーションでは、時に率直に直接的な表現を使うのではないでしょうか。
冒頭のエピソードを思い出してください。
クラスの中でTさんだけが、筆者に「手術が無事に終わってよかった」と伝えてくれました。
実にストレートな表現ですが、その言葉は筆者への敬意を欠いているでしょうか。
他の学生もきっと同じ気持ちでいてくれただろうと推測しますが、それを教師に伝えるという行動に移すことには躊躇いがあったのでしょう。
それも敬意の表し方のひとつです。
つまり、敬意を表すためにはいくつもの方法があるのです。
日本語は率直に表現しようと思えば、表現できる言語です。
また、率直に表現しても、相手への敬意を表すこともできるのです。
ここにヒントがあります。
先ほどみた、会議中の曖昧な表現について考えてみましょう。
どう表現したら敬意を示しつつ、伝えるべきことを明快に伝えることができるのでしょうか。
「そうですねえ、方向性はそれでいいと思いますが」
これは、以下のようにしたらどうでしょうか。
「Xについて、全体的な方向性は私もおっしゃることに賛成です。ただ、気になるところがあります。Yについては、これでいいのでしょうか。その点をつめて、明確にしたいと思うのですが、いかがでしょうか」
と、最後は相手の意向を尋ねる表現にする。
「おっしゃるとおり、それでいいかもしれませんね」
「おそらく、それでいけるんじゃないでしょうか」
これらは、例えば、以下のように。
「おっしゃるとおりだと思います。ただ、少し心配な点がありまして・・・」
こう言って、懸念材料を具体的に述べる。
「次の会議までに具体的に考えておいた方がいいかもしれませんね」
は、検討事項を明確に。
「私の方で数量と納期を検討します。明日までにたたき台を作って、できたら部長のところにお持ちしますので、そこでチェックしていただいて、修正があれば今週中に次の案を練ります。それでいかがでしょうか」
用件を明確にして、誤解のないように相手に伝える、そういう態度が必要です。
相手を慮るばかりに曖昧な表現を使い、その結果、齟齬が生じてしまい、その責任の所在もわからないのでは、むしろ相手への敬意を欠き、信頼関係が揺らぎかねません。
ましてや現在は、少子高齢化が進むなか、異文化を背景にもつ人々との協働がますます増加していく時代です。
相手への敬意をどう表すか、どのような言語行動が相手への敬意につながるのか、そろそろ見直すべき時期がきているのではないでしょうか。
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参照
識学総研(2020)「それ、コスプレですよ!アフターコロナのテレワーク時代、ニューノーマルになるビジネスマナーとは
https://souken.shikigaku.jp/4170/