現在、日本企業のなかで最も時価総額が高い企業はどこかご存知でしょうか?
そう、日本を代表する自動車メーカーの「トヨタ自動車」です。トヨタ自動車の時価総額は現時点で(2021年12月12日)33兆4,783億円。なお、トヨタ自動車に次いで第2位の「キーエンス」は17兆6,009億円なので、およそ2倍もの差をつけているのです。
このトヨタ自動車およびトヨタグループを創り上げた人物は豊田喜一郎ですが、その基盤を創ったのが今回ご紹介する「豊田佐吉(とよださきち)」です。
本記事では豊田佐吉に関する基本的な知識から、その生涯や人物像を紹介していきます。
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引き継がれる豊田佐吉の精神
先程も解説しましたが、トヨタ自動車、トヨタグループの創業者は豊田喜一郎です。喜一郎は豊田佐吉の息子であり、佐吉の精神や信念を引き継いで自動車産業に進出し、不屈の精神をもって成功させました。
その途中、何度も危機に直面しましたが自身の信念を曲げずに挑戦し、大きな賭けに出て成功したのです。
もちろん彼が持つ本来の能力や努力によるものでもありますが、喜一郎には手本となる人物がそばにいたことも大きく影響しています。それが父の豊田佐吉です。
つまり、今日のトヨタグループの在り方は豊田佐吉から引き継がれてきたものと言っても過言ではありません。そのため、トヨタ自動車を考えるうえでは豊田佐吉がどのような人物だったのか、どのような信念をもっていたのかといった点を理解する必要があるのです。
「世のために尽くしたい」と願う豊田佐吉の生涯
1867年((慶応3年)、豊田佐吉は遠江国敷知郡山口村(現在の静岡県湖西市)に、父の伊吉と母のゑい(えい)のもとに生まれました。父の伊吉は農業と大工をしており、腕のいい職人として高い評判を得ていました。
そんな父を見ながら育った豊田佐吉は、小学校を卒業する頃には父の大工の仕事を手伝うようになります。
豊田佐吉が子供の頃は幕末から明治初期の時代で、村そのものが貧しい状態でした。
このような背景もあってか、14~15歳になると豊田佐吉は「世のため人のためになることがしたい」、「国のために役に立ちたい」と強く感じるようになりました。
大工の仕事がない日には新聞や雑誌を読み、村の青年たちと勉強会をしますが、それでも気持ちばかりが焦ってしまい「具体的にどうすればいいのだろう」と悩むようになります。
18歳で進むべき道を見つける
こうして悩み続けていた豊田佐吉に転機が訪れます。それは、1885年(明治18年)に国が発布した新たな法律の「専売特許条例」です。この法律により、発明の奨励とその保護が打ち出され、豊田佐吉は「これだ!」と強く引き寄せられました。
これがきっかけとなり、自身の知恵を結集させ新たな発明や開発をして、創造することに一生を捧げようと決めたのです。そこで彼は「西洋文明は機械がもとになっているが、その機械は蒸気機関で動いているから石炭が要る。
だが石炭は値段が高いから、ほかの原動力を創り出そう」と考えました。
こうして新たな原動力となる発明をするべく、さまざまな工夫をしますがどれもうまくいきませんでした。
母の非効率的な手織り機をきっかけに織機を開発する
そこで豊田佐吉は自身が幼い頃に、母が使っていた非効率的な手織り機である「バッタン織り機」を思い出します。
さらに、母だけではなく村でも多くの人が効率の悪い手織り機を使っている様子を見て、「この手織り機の効率を上げれば、人のためになるはずだ」と考えた豊田佐吉は納屋で開発に没頭しました。
そして完成したのが1891年(昭和24年)に特許を取得した「豊田式木製人力織機」です。それまで使用されていたバッタン織り機は両手を使う必要がありましたが、豊田が発明した織機は片手で使えました。
これにより、バッタン織り機よりも生産性が4~5割もあがったとされています。
さらに改良を目指す
しかし、豊田佐吉はこれで満足する男ではありませんでした。
なぜなら、人手を使って織る必要があったため、それ以上に生産性を上げることができなかったからです。そこで彼はもともと目指していた動力を使った織機の開発に邁進しました。
しかし、経済的に自立するためにも、また研究開発のためにもお金を調達する必要がありました。そこで、開発した織り機を自分自身で使い、その完成度をチェックしたうえで人に使ってもらおうと考えた豊田佐吉は、1892年(明治25年)に豊田式木製人力織機を数台使った小さな織布工場を開業します。
しかし、経営と発明を同時に進めるなかで経営が苦しくなり、1年ほどで工場は閉鎖。その後はおじの家に住みながら研究を進め、資金確保のために、紡いだ糸を効率的に巻きかえる「豊田式糸繰返機」を開発しました。
動力織機の完成
1897年(明治30年)ついに豊田佐吉は木鉄混成の動力織機を完成させ、生産性が飛躍的に向上します。この動力織機には、横糸が切れると自動的に止まる装置や、布の巻き取り装置などが付いており、安価で質が高いと評判となりました。
さらに、織りだされる綿布の品質も良く、その品質も安定していたため、すぐに注目を集めます。その後1905年(明治38年)に売り出された「38年式織機」は縦糸の張力が自動で調節され、切れる頻度を減らして停止時間を少なくすることができました。
翌年にはさらに改良された「39年式織機」とともに、機能を簡略化した廉価版の「軽便織機」が発売され、日露戦争後の好景気に浮き立つ市場で大いに売れました。
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38年式織機など豊田佐吉が開発してきた織機は「小幅織機」と呼ばれる動力織機であり、生産された織物は日本や朝鮮半島、中国に出荷されていきます。
島崎町工場では120台、武平町工場では80台、西新町工場では100台の小幅動力織機が稼働していたため、織機の運転台数合計で300台となりました。こうして、収益は増えて業績も伸びていきます。
評価をあげた豊田商会の小幅織機に目をつけたのが、三井物産大阪支店の藤野亀之助支店長でした。
亀之助支店長は織機の生産能力をさらに高めるために、1906年(明治39年)に、豊田商会を株式会社にすることを勧めます。
生き残りをかけた株式会社への改組
当時、日本における綿紡績業界では、生産設備が増えすぎたため中小紡績会社の合併や統合が進み、1900年(明治33年)には79社あった紡績会社が1908年(明治41年)には36社となり、半分にまで減っていました。
加えて、大日本紡績連合会の統制のもと、操業短縮が行われていたのです。その一方で付加価値の高い綿布に加工して輸出を促進し、過剰綿糸を減らす方針となりました。これらを実現するには、織布の生産性を上げる動力織機をさらに広めることが欠かせません。
当時、使用されていた手織機の数はおよそ71万台だったのに対し、小幅動力織機の数はたったの2万657台しかありませんでした。そこで、動力織機メーカーの豊田商会にスポットがあたったのですが、個人事業の豊田商会には資金力に限界があったのです。
豊田式織機株式会社の誕生
このように、資金力に限界があった豊田商会の供給能力を向上させるには、株式会社に改組することが求められたのです。豊田佐吉はどうするか考えましたが、これまで事業に手を貸してくれていた三井物産の亀之助支店長からの勧めだったため、無下にすることもできませんでした。
そしてついに1907年(明治40年)2月、三井物産の提案を受けて名古屋、大阪、東京の有力財界人から資金提供をしてもらい、豊田商会は名古屋市島崎町に資本金100万円の豊田式織機株式会社が誕生します。
こうして、豊田佐吉は常務取締役技師長に就任し、谷口房蔵が社長に就任しました。
常務取締役を辞任
こうして豊田式織機株式会社で常務取締役に就任してから3年間、豊田佐吉は研究開発に没頭しました。この間に出願した特許の件数は、豊田佐吉の生涯においても最も多い時期となっています。
しかし、豊田式織機株式会社は、豊田佐吉が信念とする営業的試験を許さなかったため、佐吉は重役の反対を押し切って名古屋市に個人的な試験工場を開きました。
このように、豊田式織機株式会社と豊田佐吉の間には研究開発に対して異なる考え方があったため、対立するようになります。
そして、ついには社長である谷口房蔵から「会社の成績が良くならないのは研究開発に従業員の意識が奪われているからではないか。だから豊田君には申し訳ないが辞めてもらいたい」と言われ、それに腹を立てて豊田佐吉は常務取締役を辞任してしまったのです。
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豊田式織機株式会社の常務取締役を辞任した豊田佐吉は、その数週間後に心機一転するため欧米に向かうことにしました。豊田商会を株式会社に改組する提案をした三井物産の藤野亀之助支店長にとっても、豊田佐吉と豊田式織機株式会社の決裂は予想外のことでした。
だからこそ、会社と佐吉の冷却期間としても海外への視察は好都合だったため、三井物産も豊田佐吉の欧米への視察を後押ししました。
アメリカで豊田式織機に自信を持つ
アメリカへ視察に行った佐吉は東海岸北部の織布工場を見学します。日本とは規模がまるで違う工場と実験設備に圧倒された佐吉ですが、そこで使用されていた織機をよく見てみると欠点が目立ち、あまり感動することはなかったようです。
こうしてアメリカの各地を転々として視察したあと、イギリスに向かい、マンチェスター地方の織機製造や紡織産業を見て回りました。その後、オランダ、フランス、ドイツ、ベルギー、ロシアを周ります。
その後、視察をしたことによって、豊田佐吉は自身が開発した織機がいかに優れているかを実感し、さらに自信を深めて帰国しました。
帰国後、独立自営の工場を設立する
アメリカとイギリスの視察をして日本に戻った豊田佐吉は、なんとか資金調達をして1911年(明治44年)、現在の名古屋市西区則武新町に、独立自営の豊田自動織布工場を開きました。
しかし、この工場で扱っていた糸は品質が悪く、性能試験に適していませんでした。佐吉が目指している自動織機の完成には質の良い紡績糸が欠かせないと感じ、1914年(大正3年)に紡績設備を導入。
その後、経営を円滑に進めるために1918年(大正7年)、親しい人々や近親者からの出資によって豊田自動紡織工場を豊田紡織株式会社に改組します。
名言「障子を開けてみよ。外は広いぞ」とは
豊田佐吉は1918年に中国に向かい、上海での紡績業を分析します。その翌年、永住する覚悟でもう一度上海に向かい、1年がかりで工場用地を手に入れて、1920年(大正9年)には1万坪の大規模な紡織工場を完成させました。
豊田佐吉が上海で事業を行うことについて、周囲の人々の誰もが反対していましたが、そのとき佐吉は「障子を開けてみよ。外は広いぞ」という言葉で説得したのです。この言葉は豊田佐吉のスピリットを表す言葉として現代にも語り継がれています。
その後、豊田佐吉は名古屋と上海を行き来しながら、息子の吉田喜一郎や部下と一緒に完全な自動織機の開発へと邁進しました。
ついに豊田佐吉の夢が実を結ぶ
1924年(大正13年)、ついに豊田佐吉が思い描いていた夢が実を結ぶことになります。
それは、世界で初めての完全な「無停止杼換式豊田自動織機」(G型)の開発です。豊田佐吉が織機の開発で人の役に立つと決心してから、じつに30年以上の年月が経過していました。
完成したG型自動織機は、布を織るスピードを少しも下げることなく横糸の自動補充ができる機能をはじめに、たて糸切断自働停止や、保護や安全・衛生などの装置が追加され、いくつもの工夫が凝らされた画期的な織機でした。
当然、当時の織機では生産性や織物品質で右に出るものがなく、世界最高のパフォーマンスを発揮しました。欧米の技術者からは「Magic Loom(魔法の織機)」と評され、高い評価を得ることになります。
「海外に勝つ」という一心で開発を成功させる
豊田佐吉は「海外に勝ちたい」という思いのもと、完全な自動織機であるG型自動織機の開発を実現しました。そして1929年(昭和4年)、当時は世界の紡織機業界においてトップメーカーだったイギリスのプラット社になんと100万円という高額で権利譲渡(技術供与)されたのです。
当時の初任給がおよそ50円ほどの時代でしたから、G型自動織機がいかに高く評価されていたのかが、わかるのではないでしょうか。
その後、プラット社から支払われた特許権代金は息子であり後のトヨタ自動車の創業者となる豊田喜一郎に託し、「自動車」の研究開発を命じました。このようにして、1929年(昭和4年)に日本における自動車産業の発展は始まったのです。
そして、その翌年、豊田佐吉は病気によって亡くなりました。こうして自身の夢を追いかけ続けた63年の生涯に幕を閉じたのです。
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日本企業を代表し、その名を世界で知られる「トヨタ自動車」の創業者・豊田喜一郎の功績はさまざまなシーンで語られますが、そのスピリットは父である豊田佐吉から受け継がれたものであるともいえるでしょう。
その精神やエピソードを収めた書籍も多く出版されているので、一度手に取ってみるのも勉強になるはずです。
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