清貧と投資。
妙な取り合わせです。なじみの悪いことこの上ない。
それに、今どき清貧などという死語に近いものを持ち出して、一体どうしようというのか。
そんなツッコミを自らに入れつつ、一方でこうも思うのです。
でも、この世はパラドックスに満ちているではないか、と。
タイトルの「清貧の人」からして、実は京都でも指折りの大富豪。
大邸宅に住み、家具調度に贅を凝らし、大勢の使用人にかしずかれて面白おかしく遊び暮らす―望めばそんな贅沢三昧もかなう人でした。
ところが、その人は20歳から亡くなるまでの60年間、粗末で小さな家に住み、使用人はたった2人だけ、持ち物も必要最低限というミニマリストとしての生を貫きました。
その人生からは、逆説的に、ゆるぎない豊かさが見えてきます。
そして、筆者が彼の人生から思いがけず学んだこと、それは投資の原点ともいうべきものでした。
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目次
本阿弥光悦とは?
「清貧の人」本阿弥光悦(1558-1637)は、傑出した芸術家です。
それも、書、陶芸、蒔絵、さらに嵯峨本と呼ばれる当時としては画期的な活字印刷本の出版まで手掛けた、まさにスーパー・マルチ・アーティスト。
以下は、その代表作の一部です。
鶴図下絵和歌巻の一部(1/19) 重要文化財(京都国立博物館 所蔵)
絵:俵屋宗達筆 書:本阿弥光悦筆 紙本著色 34.0×1356.0cm
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html
舟橋蒔絵硯箱 国宝(東京国立博物館 所蔵) 白楽茶碗 不二山 国宝 (サンリツ服部美術館 所蔵)
左図:https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=H5
右図:http://www.sunritz-hattori-museum.or.jp/masterpieces/index.html
光悦を輩出した本阿弥家は室町時代から刀剣の鑑定(めきき)、磨研(とぎ)、浄拭(ぬぐい)を家業とし、その道では日本随一といわれていました。そのため、名だたる武家とも交わりがありました。
徳川家康をも唸らせた、エピソード~ [1]
これからご紹介するエピソードは『本阿弥行状記』 *1 に記されているものですが、これは本阿弥家の子孫のために書き残されたプライベートな家記です。
好きなものだからこそ、敬意を払う
光悦は茶人としても超一流でした。
あるとき、彼はある茶入れに惚れ込みます。
いい茶道具を持つことが大変重要視されていた時代です。諸国大名はこぞって高価な茶道具を買い求めていました。
その茶入れも黄金30枚という高値。
金策に苦しむ光悦を気の毒に思い、持ち主は値引きを申し出ますが、光悦はそれを頑として断りました。
この茶入れは黄金30枚だけの価値が十分ある、それをまけてもらうわけにはいかない、と。
それは、茶入れに対する敬意だったのでしょう。
この話はすぐに京中に広まり、ほとんどの人が、
「どうかしてるんじゃないのか。バカなことをしたものだ」
と嗤うなか、家康ひとりが光悦の行いを褒めたと伝えられています。
家康はこうした光悦の心根を愛し、2人の絆は深まりますが、この信頼関係がやがて思いがけぬ展開につながります。
それは後ほど詳しくみることにして、今はエピソードの続きに戻りましょう。
なんとか黄金30枚を工面して、ついにその茶入れを手に入れた光悦は、それに上等な茶を入れ、前田利家の長男、利長に見せに行きます。茶人大名と呼ばれた前田家は本阿弥家のパトロンとして、光悦の父、光二の代から扶持を授け、親密な関係が続いていました。
利長は光悦が点てた茶を一服し、
「いい茶入れを見つけ出したものだ」
と上機嫌でした。
光悦が帰ろうとしたとき、前田家の家臣がやってきて、白銀300枚を渡そうとします。
それは、援助という意味合いだったかもしれませんし、あるいは白銀300枚でその茶入れを譲れということだったのかもしれません。
けれど、光悦は頑なに辞退しました。
「これまで前田様のおかげでお金を貯めることができ、茶入れはその蓄えで購入したものです。こ
れ以上いただくわけには参りません」と。
光悦は媚びへつらうことを嫌う人でした。
帰宅してから光悦は殿様のご機嫌がよかったことやお金を差し出されたことを母の妙秀に話して聞かせました。
すると、妙秀はさっと顔色を変え、その白銀を受け取ったのかと光悦を責め立てます。
光悦が一部始終を話すと、妙秀は機嫌を直し、こう言いました。
「そのお金を受け取っていたら、茶入れの価値はなくなっていたに違いない。あなたも一生、茶の湯を楽しむことができなくなっていたはずだ。よく返上した」
妙秀の価値観がよく表れている逸話です。
茶入れを手に入れるとき大金を払ったのは、目利きの光悦が、その対価にふさわしい茶入れだと評価したからです。
でも、それは譲ってもらうための手段であって、その対価が茶入れの根源的な価値というわけではありません。その価値は、本来、金銭とは無縁のもの。
そこに金銭を介在させるのは、茶入れの真値に対する冒涜であり、大切な道具をそのように捉え扱う者は、まことの茶人とはいえない。
そのことに妙秀はこだわったのではないでしょうか。
光悦は、ほどなく、この茶入れを跡継ぎの光瑳に譲ろうとしましたが、光瑳はこう言い、遠慮します。
「私は家督をお譲りいただいているので、妹にお譲りください」
光瑳は養子でしたが、光悦に通じるものがあります。
そこで光悦が娘に譲ったところ、子孫の代にその茶入れを望む人がいて、黄金200枚で譲った。
このエピソードはこの後日談で終わっています。
けれど、先ほどふれたように、この話は大きな展開につながりました。
それはどんなものだったのでしょうか。
分け与え、分かち合う
~その後の実り~
光悦の父、光二は刀脇差の鑑定と細工において並ぶものがないといわれたほどの名人でした。
そのため、諸大名が次々に光二を呼び寄せ、刀剣の鑑定を依頼していました。
光二が今川義元の屋敷に長く滞在したとき、竹千代時代の幼い家康と出会いました。竹千代に刀細工を見せたり、小刀を研いでやったり、乞われて食事のお相伴をする―家康とはそんな親しい交わりがありました。
人質だった竹千代にとって、それは心休まるひとときだったに違いありません。
そうした経緯もあり、家康は光二の息子である光悦のことをいつも気にかけていました。
先ほどの茶入れのエピソードで、家康だけが光悦の行為を認めたことをお話ししました。
その背景には、光悦の親の代から続く本阿弥家との信頼関係があったのでしょう。
光悦もまたその信頼を裏切らなかった―そのことを、あのエピソードは示しています。
大阪夏の陣から帰るとき、家康は家臣に光悦の近況を尋ねます。
「まだ生きながらえております。変わり者で、京都には住み飽きたので、どこか片田舎に住みたいと申しております」
そう聞いた家康は、1615年、京都郊外の鷹峯(たかがみね)の広大な原野を光悦に与えました。
東西200間(約360m)、南北7町(約763m)、ざっと計算して、83,000坪です。
光悦はその野山をどうしたのでしょうか。
荒れ果てた原野でしたが、彼は喜び、土地をいくつかに分割して、親族、友人知人、さらに長年、仕えた使用人にまで分け与えました。
その中には多くの芸術家や職人もいて、後に光悦村と呼ばれる芸術村が形成されました *3。
寺院も建て、貧しい僧侶を集めました。
このことについて、18世紀末の列伝では、次のように記されています。
光悦は芸術面だけでなく、経済面にも優れた才能があった。
荒野を拓き、村を作ったことで、住民は多くの利益を得た。
若狭や丹波との通路もでき、往来も活発になった。
さらに、辺りを荒らす山賊もいなくなった。
これこそが光悦を見込んだ家康の狙いだったのではないかという歴史学者もいますが、いずれにせよ、こうして原野は拓け、多くの人々に分け与えられ、人々の生活は豊かになり、治安もよくなりました。
さらに、優れた芸術作品も生まれました。
光悦はこの頃も相変わらず質素な生活を送っていましたが、夕暮れどきに散策をしながら、こうした「分に過ぎた境遇」は、自分の力がもたらしたものではないという思いを強くしていました。
そんなとき、思い出されたのは、母、妙秀のことです。
~盗まれて憎まず~
光悦の母、妙秀のエピソードはどれも鮮烈です。
夫の光二がいわれのない中傷から織田信長の不興を買い、命も危うい状況に陥ったとき、狩りに出かけた信長の馬の口にとりつき、夫の無実を直訴したほど肝のすわった女性です。
秀吉の天下だったころ、石川五右衛門が光二の蔵を破り、中にあったものを全て盗み去りました。
その知らせを聞いて出先から急遽、戻った光二が、
「家の道具は構わない。でも、よそから預かっている刀脇差を盗まれてしまったとは、申し開きもできないことになってしまった」
と嘆くと、妙秀は平然としてこう言い放ちました。
「この家に刀剣をお預けになるほどの武士が、盗人にあったからといって、是が非でも返してくれなどとはおっしゃらないでしょう」
それより彼女の気がかりは、盗賊たちのことでした。
この家に押し入ったばかりに多くの名刀を盗んだ。そのことが災いしてまもなく足がついてしまうだろう。処刑によって多くの命が失われるのは痛ましい。
そこで、彼女はこの盗賊たちがみつからないように寺に頼んで祈祷してもらっています。
その翌日、光二も妙秀もいつもの生活に戻りました。
泥棒にあったと聞いて駆け付けた人々は、全財産を盗まれても平然としている2人を見て、なんと変わり者の夫婦だろうと噂しました。
妙秀の孫やひ孫は、彼女のこうした人柄を尊敬し、孝行に励みました。
妙秀は孫たちからの贈り物を、それが衣服ならすぐに断ち切って、帯、襟、頭巾などを作り、多くの人々に分け与えました。
妙秀に衣服を送ってもどうせ着てもらえないからと金銭を送ると、それで日用品を山ほど買い込み、多くの人々に贈りました。厚紙を買い求めて自分の手でよく揉んで、寒いときには背中にこれを当てて凌ぐようにと貧しい人々に手渡しもしました。
妙秀が90歳で亡くなったとき残されていたのは、反物が1つ、夏物の着物が2枚、浴衣、手ぬぐい、紙製の寝間着、木綿の布団、それに枕だけだったということです。
清貧から見出す投資の原点
清貧とはただ貧しいということではありません。
本阿弥家は裕福な商家でしたが、彼らは敢えて質素な生活を志向し、金銭には一切、執着しませんでした。
当時と今とでは時代が違うという人もいるでしょう。
けれど、上のエピソードの中に、もし心に沁みるもの、心揺さぶられるものがひとつでもあったとしたら、それは時空をこえた価値観ということにはならないでしょうか。
貨幣経済が急速に発達しつつある時代にあっても、彼らは目先の利益には決して惑わされませんでした。
それどころか、持てるものを惜しみなく他者に分け与え、分かち合う人たちでした。
そのことが、回りまわって鷹峯の拝領につながり、それが多くの人々、さらには社会にも豊潤な恵みをもたらしました。
投資とは何でしょうか。
それがただの金儲けだというのなら、投資と清貧とは一切、無縁です。
でも、投資を、人生を豊かに幸せに生きるための行為、お金を回して社会全体を豊かにするための活動だと捉えたらどうでしょうか。
光悦の価値観、行い、人生から、きっと投資の原点が見いだせるはずです。
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参照
*1日暮聖・加藤良輔・山口恭子(2011)『本阿弥行状記』平凡社
*2中野孝二(1992)『清貧の思想』草思社
*3京都府ウェブサイト「新光悦村とは>本阿弥光悦について」
https://www.pref.kyoto.jp/shin-koetsu/1275377367995.html
注
[1] *1:pp.49-51(第12段)、*2:p.13
[2] *1:pp.220-223(第51段)、*1:p.235、*1:pp.240-241(第52段)
[3] *1:pp.8-9(第1段)、*1:pp.18-19(第3段)、*1:pp.54-56(第13段)