目次
はじめに
現在、世界は脱炭素社会の実現に向けて動き出しており、そのためには企業活動の脱炭素化が欠かせません。しかし、十分な資金がなければ、企業も脱炭素化のために投資を行うことができません。そこで活用されているのが債券(社債)です。債券は、企業の資金調達手段の一つとして従来から重要なものでしたが、近年は脱炭素化の取り組みに特化して資金を融通する環境債(グリーンボンド)、ESG債など、様々な債券が誕生しています。なかでも、特に注目されているのが移行債(トランジション・ボンド)です。この記事では、脱炭素化を実現するための新たな資金調達手段として注目されている移行債について詳しく解説していきます。
移行債とは?
移行債とは、企業の陰湿効果ガス(GHG)排出削減に向けた長期的な移行(トランジション)戦略に則ったプロジェクトへの投資を使途とする債券のことを言います。トランジション・ファイナンス(transition finance)の一種です。移行債は環境債の発行基準を満たさないが将来の脱炭素に移行するための事業に資金を使えるというメリットがあります。
企業のGHG排出削減に向けた長期的な移行戦略に則ったプロジェクトを支援するための資金調達の手段を総称して「トランジション・ファイナンス」と呼びます。トランジション・ファイナンスは、様々な用語で呼ばれるものの、環境改善や社会貢献に何らかの効果のある取り組みを資金使途とする債券という点では共通しています。しかし、トランジション・ファイナンスは、資金調達者がパリ協定と整合した長期目標を実現するための戦略を明確に求められるという点において、より将来に対して野心的な取り組みを担保する主体へのファイナンスと言えるでしょう。
移行債の市場は近年大幅に成長しており、地方政府、企業、銀行、政府機関などが、展開するグリーンプロジェクトの資金調達源として活用されています。日本では、2021年10月に日本郵船が初めて起債し、その後も様々な企業が移行債を活用して資金調達を行っています。
ESG債は移行債の一種
企業にとって債券は資金を調達するための重要な手段です。企業がESG(Environment(環境)Social(社会)Governance(ガバナンス))に関する取り組みみや、サステナビリティ(sustainability)に関する取り組みみをするためには資金が必要となります。その資金を調達する目的で発行される債券は、一般に、ESG債と呼ばれます。資金の使途をわかりやすくするために、グリーンボンド、ソーシャルボンド(社会貢献債)、サステナビリティボンド(環境及び社会貢献債)などと呼ぶこともあります。
こうした債券は、一般の債券と異なり、資金使途、プロジェクトの選定・評価プロセス、資金の管理などに関する情報を投資家に開示することが望ましいとされており、外部評価機関から認証を受けることもあります。通常、これらの債券の発行のためには、トランジション・ファイナンスを支えてきた国際団体である国際資本市場協会(International Capital Market Association: ICMA)が発行しているガイドラインに則っていることが必要です。
トランジション・ファイナンスは細分化すれば様々な債券の種類を挙げることができますが、ICMAの定義に沿って、以下では、環境債、社会貢献債、環境及び社会貢献債の3つについて詳しく説明していきます。
環境債
環境債とは、地球温暖化対策や再生可能エネルギーの導入など、環境分野への取り組みに特化した資金を調達するために発行される債券のことです。グリーンボンドには以下のような特徴があります。
- 調達資金の使途が温暖化対策に関する取り組みに限定される
- 調達資金が確実に追跡管理される
- それらについて発行後のレポーティングを通じ透明性が確保される
欧州投資銀行は、2007年に世界で初めて「Climate Awareness Bond(気候を意識した債券)」とう環境債を発行しました。この取り組みに続き、世界銀行やアジア開発銀行といった国際金融機関も環境債を発行しています。その後は、民間金融機関や事業会社による環境債の発行も増えるようになりました。
グリーンボンド発行に関する自主的ガイドラインであるグリーンボンドガイドラインが、2014年1月にICMAによって公表されており、その後逐次改訂されています。このガイドラインは、グリーンボンドの透明性の確保、情報開示及びレポーティングを推奨し、市場の秩序を促進させるために策定されたもので、厳密には、このガイドラインに則って発行された債券だけを環境債と呼びます。
社会貢献債
社会貢献債とは、社会的課題に対する取り組み資金を調達するために発行される債券です。ICMAが策定したソーシャルボンド原則において、資金調達の使途、プロジェクトの評価と選定のプロセス、調達資金の管理、レポーティングの4つに関する規定がされており、この原則に合致した債券が社会貢献債と呼ばれます。
環境債と異なり、社会貢献債は、世界銀行やアジア開発銀行などの国際金融機関や国際協力機構(JICA)のような政府系機関が発行するケースが多く、これらの機関が開発途上国の政府、金融機関、企業などに投融資して社会的問題の解決に役立てています。
環境及び社会貢献債
環境及び社会貢献債は、ICMAが策定したグリーンボンド原則及びソーシャルボンド原則の両方に共通する4つの規定に適合している債券を言います。ガイドラインを通じて透明性、情報開示及び報告などが行われます。環境及び社会貢献債の発行体は、ガイドラインに則って資金用途を決定し、調査会社や監査法人などの第三者によるセカンドオピニオンを受け、妥当性の検証が行われます。
移行債が注目される理由
脱炭素の資金を調達する手段として最も普及しているのが、環境債です。GHG排出量が多く環境負荷が高い産業では、環境債の発行は難しいことも多く、資金を調達したくてもできないという現実がありました。例えば鉄鋼や化学メーカーなど、二酸化炭素を多く排出している企業は、第三者機関からなかなか認証が得られないのです。しかし、GHG排出量が多く環境負荷が高い産業でこそ脱炭素化が進まなければ、脱炭素社会は実現できません。
そこで、経済産業省などは、環境債だけではなく、広く日本でのトランジション・ファイナンスが進むよう環境整備を進めてきました。移行債には、それを発行する企業が、気候変動リスクを減らす方向で事業モデルを転換することを促す効果が期待されています。
トランジション・ファイナンスで開示が求められている4つの要件:ICMA
トランジション・ファイナンスは、基本的にGHG排出削減の取り組みを支援することを目的としたファイナンス手法ですから、それ以外の目的のために債券を発行することはできません。そのため、債券の発行には一定の要件があり、債券発行後も、本当に企業が取り組み要件を守っているのかをきちんと取り組み評価する必要があります。
その判断基準となるものとして、ICMAが2020年12月に、発行体向けに「Climate Transition Finance Handbook 2020」を公表しました。そこでは、資金調達者が満たす必要がある4つの要素が挙げられています。その4つとは、「資金調達者のクライメート・トランジション戦略とガバナンス」、「ビジネスモデルにおける環境面のマテリアリティ」、「科学的根拠のあるクライメート・トランジション戦略(目標と経路を含む)」、「実施の透明性」です。以下では、これら4つの要件について説明していきます。
クライメート・トランジション戦略とガバナンス
トランジション・ファイナンスによって資金を調達する以上、その資金を使った企業の取り組みは、企業の戦略に基づいた一貫したものである必要があります。企業全体で取り組みを行うためには、きちんとしたガバナンス体制を構築し、経営者がその取り組みをコントロールしなければなりません。
中期経営計画等の経営戦略、事業計画など、企業のガバナンス体制と連動したトランジション戦略・計画を立てる必要があるのです。
ビジネスモデルにおける環境面のマテリアリティ
トランジション戦略の実現のためには、現在及び将来において環境面で重要となる中核的な(マテリアルな)事業活動の変革に貢献しなければなりません。単に、環境配慮のための寄付などを行うのではなく、企業は自身のビジネスモデルの中に環境への貢献を取り込んでいく必要があります。
科学的根拠のあるクライメート・トランジション戦略
資金調達者は、トランジション戦略を構築する際、科学的根拠のある目標に基づくことが求められています。実行可能なクライメート・トランジション戦略でなければ、それは絵に描いた餅に過ぎないからです。科学的根拠のある目標とは、パリ協定の目標の実現に必要な削減目標であり、地域特性や業種の違いを考慮しつつ、設定されるべきであるとされており、実施方法等については関連するガイドライン等を参照することが有用であるとされています。
実施の透明性
トランジション戦略を実行するために、債権の発行者は基本的な投資計画を可能な限り透明にすべきです。なぜなら、資金調達後の活動が不透明であれば、企業外部のステイクホルダーが、企業の環境面の取り組みを評価できないからです。
移行債には各省庁も注目
移行債には経済産業省も注目しています。日本では、2050年までにカーボンニュートラルを目指すことを国家戦略として宣言しており、脱炭素化の実現に向けた国際取り組みの進捗を注視しつつ、国内でのトランジション・ファイナンスの促進のため、金融庁・経済産業省・環境省が共同で「トランジション・ファイナンス環境整備検討会」(以下、検討会)を開催し、トランジション・ファイナンスを実施する際の基本指針の検討がされてきました。以下では、トランジション・ファイナンス普及のための政府の取り組みについて説明していきます。
クライメート・トランジション・ファイナンスに関する基本指針
経済産業省、環境省、金融庁は共同で、2021年5月に「クライメート・トランジション・ファイナンスに関する基本指針」を策定しました。このなかで、トランジション・ファイナンスは、「資金調達を必要とする個別プロジェクト(資金充当対象)のみに着目するのではなく、脱炭素に向けた事業者の「トランジション戦略」やその戦略を実践する信頼性、透明性を総合的に判断するもの」と定義されています。
トランジション・ファイナンスに関する取り組み
トランジション・ファイナンスはまだまだ黎明期ということもあり、それほど事例があるわけではありません。そこで、経済産業省では、クライメート・トランジション・ファイナンスモデル事業というものを立ち上げ、トランジション・ファイナンスの事例蓄積に努めています。このモデル事業の目的は、トランジション・ファイナンスによる資金調達の事例を積み上げ、黎明期にあるトランジション・ファイナンスの市場形成につなげることにあります。
移行債のスキーム
移行債といっても、従来の環境債や社会貢献債と同じような発行スキームをとるのが一般的です。以下の図は環境債の一般的な発行スキームを表していますが、移行債と読み替えても問題ありません。移行債として発行するためには、うえで説明したICMAのガイドラインに則って要件を満たすことが求められます。以下では、移行債の発行にはどのようなアクターが関わるのかについて説明していきます。
出所:環境省
発行体
移行債を実際に発行する企業は発行体と呼ばれます。発行体には、一般事業者・金融機関・地方自治体などがなることができます。
投資家
移行債に対して投資家を行う人は投資家と呼ばれます。ただし、通常の投資家とは異なり、移行債の資金使途に関心を持った投資家に限定されます。
アレンジャー
移行債の発効要件について調整する主体をアレンジャーと呼びます。通常、証券会社がアレンジャーを担います。
外部レビュー機関
移行債は、その資金使途が適切であるかなど、第三者によるチェックを受けなければなりません。その役割を担うのが外部レビュー機関です。通常、監査法人や認証機関等が外部レビュー機関の役割を担います。
日本における移行債の事例
ここでは、数少ない日本における移行債の事例として、日本郵船株式会社とJFEホールディングス株式会社の事例を紹介していきます。
日本郵船株式会社
2021年7月、日本郵船は、脱炭素に向けた中長期の経営戦略に用途を限定する移行債を計200億円発行することを発表しました。脱炭素戦略を前提とした移行債の発行は、日本郵船が国内で初めてです。
ESG経営戦略への統合を加速させる目的で、日本郵船はGHG排出削減に向けた長期的な移行(トランジション)戦略を2021年2月に策定しました。GHG排出削減に向けてLNGを年長とする船舶への投資、船舶燃料をアンモニア・水素への切り替えなどを進めることを発表しています。
JFEホールディングス株式会社
2022年1月、JFEホールディングス株式会社は、移行債の発行を発表しました。2022年度上期の発行を予定しており、債券の償還期限や利率はこれから決まる予定です。
JFEホールディングスは、中期計画で、グループ全体のグリーン・トランスフォーメーション(GX)投資額を4年間で3400億円、うち鉄鋼事業で1600億円と公表しています。2050年に二酸化炭素排出量を実質ゼロにする目標を掲げ、鉄鋼事業の24年度の排出量を13年度比18%減らす方針を掲げており、目標達成のため鉄鋼事業だけで50年までに3兆~4兆円の設備投資が必要であるため、資金調達が課題となっていました。今回の移行債の発行によって300億円の資金調達を行います。
JFEホールディングスは、上記のようなクライメート・トランジション戦略のもとで以下のような取り組みを行うと発表しています。
省エネ・高効率化に関する取り組み
- 高炉のAI・IoT化
- スクラップ利用拡大、
- コークス炉改修等に関する設備投資資金または研究開発資金
- 排熱・副生ガスの回収と有効利用のための設備投資資金等
エコプロダクトの製造
- 電磁鋼板の製造に関する設備投資資金および研究開発資金等
- 超革新的製鉄プロセスの開発
- カーボンリサイクル高炉、CCU、水素製鉄、電気炉での高級鋼製造に関する研究開発資金
再生可能エネルギーに関する取り組み
- バイオマス・地熱・太陽光発電の再生可能エネルギー事業に関する設備投資資金等
移行債は今後増加する可能性がある
移行債の発行は今後増加していく可能性が高いと言われています。実際、2022年2月には、国内3例目として日本航空(JAL)が移行債の発行を発表しました。その後、東京ガスも移行債の発行を発表しています。
日本で初めて移行債を発行した日本郵船の債券のうち、5年債には9.5倍、7年債には11.5倍の需要が集まるなど、投資家から注目を集めました。国内社債市場において、移行債が今後のトレンドになると期待している投資家も多いことでしょう。日本政府も移行債の発行を支援しており、金融機関に対する利子補給制度を創設して、野心的な削減に取り組む企業事例に0.1%の利下げをする方針も示しています。
まとめ | 移行債は今後の注目材料
企業活動を脱炭素化するためにはやはり資金が必要となります。したがって、脱炭素化に向けた取り組みみを支援しなければなりません。移行債は、今後、企業の脱炭素化の取り組みのための資金調達手段として一般化する可能性は十分に考えられます。移行債の取り組みはまだ始まったばかりです。政府も移行債の発行に向けた取り組みを加速させています。今後も移行債の動向に注目していきましょう。