行き詰った状況でもアイディアさえあれば道は拓ける。
イノベーションこそ最強の成長戦略である。
330年前にこう書いた人物がいます。
その名は「井原西鶴」。
一般的には、文化人として有名な井原西鶴。
しかし彼は作家としても、ビジネスパーソンとしても超一級品でした。
鬼才が描くイノベーションは、決済方法、サービス形態、店舗設計などの商法全般にとどまらず、人材マネジメントやマーケティングまでもを含む驚異の経営戦略でした。
そのモデルは、越後屋の創業者、三井高利。
ドラッカーも名指しでその手腕を認めた天才経営者です。
近年、政府は「多様で柔軟な働き方」「ダイバーシティ」といった新しい価値観と働き方を推奨しています。
なかでもダイバーシティ経営は、
「女性をはじめとする多様な人材の活躍が、少子高齢化の中で人材を確保し、多様化する市場ニーズやリスクへの対応力を高め、日本経済の持続的成長に不可欠[1]」
と位置づけ、特に力を入れています。
目次
西鶴の文体に翻弄される心地よさ
最初にちょっとマニアックなことを呟きます。
思うに西鶴の面白さは、マゾヒスティックな心の揺らぎ、翻弄される悦びにあるのではないか、と。
こう言ったかと思えばああ言い、ああ言ったかと思えばこう言う。二転三転、舌の根も乾かぬうちに、次から次へと前言を翻すその節操のなさは、まさに振り回し系の話術。
例えば、「金銀は命の親である」と書いてある。
ああそうか、拝金主義なのねと思ったとたん、
「でも、人の命はいつ消えるとも限らない。人生は夢まぼろしのようなものだ。死んでしまえば、金銀はなんの役にも立たない」
とくる。ええっと思いながらも気を取り直し、確かに、と呟いた次の瞬間、
「とは言うものの、遺せば子孫のためになる。考えてみれば、金銀の力でかなわぬことは、生・老・病・死・苦の五つだけ。そう考えれば、金銀にまさる宝がほかにあろうか」[1]
と、こともなげに言い放つ。
全編、そんなふうに話が進んでいきます。
一体、どうなっているんだ、どこに真意があるのだと戸惑うお方は、まだ青い。
どだい物事は多面的、どちらも道理、どっちでもいいのだと腹を括り鷹揚に構える。そうして、作者のことばに身をゆだね、ひたすら揺られ流されまた揺られ、というのが成熟した大人のお作法です。
そんな作風の西鶴が著したのが、ビジネスにまつわるエピソード集、『日本永代蔵』。
長年にわたって読み継がれ、その娯楽性と教訓性がウケて、売れに売れた、大ロングセラーにして大ベストセラーです。
出版は1688年、時に西鶴47歳、実に330年あまり前のことでした。
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イノベーション前夜
問題のモデル小説は、この作品のはじめの方、全6巻30編中の巻1-4、つまり4編目に出現します。
タイトルは「昔は掛算今は当座銀」。
登場人物の三井九郎右衛門のモデルは三井八郎右衛門高利(以下、「三井高利」)、あの越後屋に大イノベーションをもたらした人物です。
導入部はいつものようにあれやこれやの四方山話。
その後、おもむろに呉服屋の業界事情が明かされます [1]。
当時の江戸では、呉服屋はお得意様の武家屋敷に出入りし、商売をしていました。
ところが、過当競争で採算がとれない呉服屋が続出。
それ以前は婚礼や衣配り(正月の晴れ着用に小袖地を使用人に配る習慣)には、縁故を頼って大きな商売ができたのですが、武家の財政が逼迫し、この時代には入札制度が導入されていました。落札をにらんでの入札では安く札を入れることが多くなり、落札したところで利益は薄い。
さらに、売掛金の未回収分が膨れ上がり、資金運用も厳しいという状況が日常化していました。
ジリ貧です。
一方で、江戸本町の呉服街には公儀御用達の有力な呉服屋も集まっていました。顧客は高級幕臣や諸大名で、顧客の屋敷に商品を持ち込み、大規模なビジネスを営んでいました[1]。
では、越後屋はどうだったのでしょうか。
1673年8月、三井高利が京から江戸に進出、本町一丁目に呉服店「越後屋」を開業しました [2]。
本町一丁目とは今の日本橋で、店舗はまだ小さく、この時点では小規模なビジネスにすぎませんでした。
図1 越後屋の様子
出典(図1・図2):[1]井原西鶴 堀切実 訳・注 『新版 日本永代蔵 現代語訳付き』(角川ソフィア文庫)(2013年)角川文芸出版(電子書籍版) 図1:No.3704、図2:表紙
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越後屋のスローガン
ここから、イノベーションの話に移ります。
三井高利のアイディアとはどのようなものだったのでしょうか。
1683年5月、彼は、手持ちの現金で駿河町に大きな店舗を構えました。
現在の三越本店がある場所です。
そこに、両替店(現在の三井住友銀行の前身)を併置し、新たなビジネスを展開しました。
そのとき掲げたスローガンは以下のようなものです [2]。
「店前現銀掛け値なし」 店頭販売、キャッシュ決済、正札販売 |
現在、当たり前になっているこうした商法は、当時としては画期的なものでした。
特に正札販売(=すべての顧客に同じ価格で販売する)は世界初!
天才的な創意による新機軸のビジネスです。
当時、一流の呉服屋の商法は「見世物商い」と「屋敷売り」が一般的でした。
見世物商いとは、前もって注文を聞き、後日、商品を持参する方法。屋敷売りとは、直接、商品を武家の屋敷などに持参して売る販売方法です。
支払いの慣習は盆・暮の二節季払いか、12月だけの極月払い。
そのため、貸し倒れや掛売の金利がかさむため、商品の値段を高く設定する必要がありました [1]。
この小説のタイトル、「昔掛算」の「掛算」とはこうした価格設定のことを指します。
このような支払い形態は資金の回転を悪化させます。
そこで、三井高利はこの制度を廃止し、店頭販売に切り替えて、商品の値を下げ、正札をつけて正価販売するという斬新な商法を編み出しました。
しかも現金取引です。
この方式は資金の回転を速めます。現金収入を仕入れに回し、より多様で量的にも豊富な品揃えを顧客にアピールして売りさばき、それがさらなる現金収入につながるという好循環を産みます。
タイトルの「今は当座銀」の「当座銀」とはこうした現金取引のことです。
越後屋が掲げたスローガンはもうひとつあります [2][3]。
「 小裂いかほどにても売ります」 切り売りします |
当時、呉服業者間では一反単位で売るのが常識でした。
でも、イノベーター気質の三井高利はそのタブーを破り、切り売りを断行しました。
小説の中には、「ビロード一寸四方(3.3 ㎠)でも」売り渡したとあります [1]。
顧客の中心は新興町人層、武家に代って台頭してきたブルジョアジーです。
巨大消費都市として発達しつつあった江戸。
三井高利はこうした時代性を見逃しませんでした。
当時の時代ニーズに合致する商法を創出し、消費者の要求に応えることによって、江戸中の町民層の大きな需要を掘り起こしたのです。
彼が掘り起こしたニーズはそれだけではありません。
礼服や羽織の急なオーダーメイドにも応え、その場で誂えました。
その部分を抜き書きしましょう [1]。
急に主君にお目見えする際の礼服や、いそぎの羽織などは、その使いの者を待たせておいて、数十人ものお抱え職人が居並んで、即座に仕立ててこれを渡してやった。
正札販売という公平性、安価な価格設定、個々のニーズに応える多様なサービスが庶民に受け、越後屋は繁盛しました。
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店舗設計と人材マネジメント
イノベーションは店舗設計と人材マネジメントにもみられます。
駿河町の新店舗は、間口が狭く奥行が長い当時の一般的な店構えとは逆に、間口を広くとった造りでした。
手代を横並びに並べ、大勢の客を効率よくさばくための設計です。
また、1人の手代に1種類の品物を担当させました。
小説では、以下のように描写されています [1]。
たとえば金襴類に一人、日野絹・郡内絹類に一人、羽二重に一人、紗綾類に一人、紅類に一人、麻袴類に一人、毛織類に一人というふうに手分けして売らせ・・・
このような人材マネジメントは効率的な販売に有益なだけでなく、スペシャリストの養成にもつながります。
衣類を購入するときはさまざまなことを検討する必要があります。
用途、好み、流行、素材、品質、値段・・・、それだけに客は迷い、専門家の意見を参考にしたくなるものです。
顧客が専門性を備えた手代に要望を伝え、アドバイスを受け、納得して品物を購入することができれば、それが満足感につながり、店舗への信頼性、ブランド性が高まります。
顧客とのそうした密なやり取りによって、顧客のニーズを日々、現場から掬い上げ、それを仕入れにフィードバックすることもできます。
それによって実現するのが、顧客ニーズに応える商品のラインナップ。
そして、それがまた次の客を呼ぶ込む。
こうして越後屋は繁盛し、1日に「金子百五十両」、実に現在の約1,980万円の売上があったと書かれています [1]。
図2 越後屋本店の様子
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ドラッカーが評価した、ここが凄い!
ドラッカーは著書でこう述べています。
企業の目的は顧客の創造である。(中略)マーケティングとイノベーションだけが成果をもたらす。他のものはすべてコストである。
ドラッカーが上の記述のすぐ後に名前を挙げて賞賛しているのが、ほかならぬ三井高利です [4]。
アジアでは、マーケティングが実行されたのは早かった。(中略)1650年頃、今日の東京に進出してデパートの原型となるものを開店した三井家の人間によって、マーケティングは発明された。シアーズ(アメリカの百貨店)の250年前に、顧客のためのバイヤーとなり、顧客のために製品をつくり、顧客のために仕入れ先を育てた。返金自由とし、多様な品揃えを旨とした。三井家は、当時の社会変化が、新興ブルジョアジーという新たな顧客層を生んだことを見逃さなかった。
ドラッカーが評価したのは、あくまで顧客目線を基軸とした経営戦略、顧客ニーズに応えるための多様なサービスです。そしてそれらを可能にしたのは、時代性に即した顧客層の把握でした。
このように、ドラッカーも評価する三井高利ですが、話はこれだけでは終わりません。
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一筋縄ではいかない・・・
この小説の結びの部分で読者はまた煙にまかれます。
越後屋の「いろは順の番号をつけた引き出しに入れてあるもの」として列挙されているのは、すべて現実にはあり得ない、架空の品々、西鶴の創作なのです。
それも、「阿弥陀如来のよだれかけ」とか、「達磨大師の座布団」とか、呆気にとられるほど奇抜なものばかり [1]。
そんなあ、嘘でしょう?
教訓に満ちた成功譚の後で、どうしてこういうおちゃらけたことを書くのでしょうか。
洒落?
茶化し?
それとも、遊び心?
これまでのリアリティーを一気に覆して、読者を置き去りにする。
それも、最後の最後になって!
西鶴はやはり一筋縄ではいかない人です。
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参照
[1]井原西鶴 堀切実 訳・注 『新版 日本永代蔵 現代語訳付き』 (角川ソフィア文庫) (2013年) 株式会社KADOKAWA (電子書籍版)[2]三越伊勢丹ホールディングス「三越のあゆみ」
https://www.imhds.co.jp/ja/business/history/history_mitsukoshi.html
[3]三井広報委員会「三井の歴史;江戸期「越後屋誕生と高利の新商法」
https://www.mitsuipr.com/history/edo/02/
[4]P・F・ドラッカー著 上田惇生『マネジメント [上] 』 (2008)ダイヤモンド社(電子書籍版)