最近、Googleや、キラキラしたスタートアップの働き方が、メディアなどでクローズアップされる機会が多く、それを見て「素晴らしい」という経営者や社員の声を見かけるようになった。
例えば、Googleの社内には、ゲームや楽器が配置され、無料の食堂があり、飲み物も飲み放題だ。
食堂のとなりにある部屋では、社員がなんとプレステのぷよぷよで遊んでいた。
「休み時間は何やっても自由なんで、いろんな遊具が置いてあります。裏にはダンスダンスレボリューションもありますよ」
……ここは……本当に……会社なのか……「音楽ルームもありますから、楽器だって演奏できます。あ、そこにある自動販売機、勝手に押してもらって大丈夫ですよ。無料でジュース飲めますから」
ポチッと押したら本当にペットボトルが出てきた。
あるいは「自由に働けてやりがいもある」という会社のランキングもある。
自由に働けてやりがいもある企業ランキング【ベスト20・完全版】
「所定勤務時間だけクリアしていれば、自由に何日でも休める、直行直帰も自由、会議もリモートでできる、外から社内イントラにもアクセスできる、という環境があるので、個人の意思でどんなバランスでも設計可能」
「『遊ばざるもの働くべからず』が社訓としてあるので、みんな色々なフィールドに行き、遊ぶなかで製品を試して感想をフィードバックする、というような風潮でした。休みは取りやすいですし、仕事以外に情熱を燃やせるものがある人の方が魅力があるという感じで、自由な働き方が可能でした」
コメントだけを見れば、こうした待遇を見て、「「従業員に優しい会社」だから、業績がよい。だからウチも」と考える人が増えてもおかしくない。
だが、そうした会社の「先進的に見えるルール」を導入した結果、どうなったかという話は、
ほとんど報道されない。
また、「長期的な観測」ではないため、そのルールが本当に有効だったかどうかについては、議論されることがない。
だから、こう考えることもできる。
実は、因果は逆ではないのか、と。
「Googleは金を持っている上に、社員が優秀で、勝手に働くから、管理など必要なく、従業員に優しくできる」のだと。
いや、他の会社も同様だ。
結局の所、「金を持ってて」「優秀な人がたくさんいる」から、自由にできる、というだけではないだろうか、という疑問が、頭から離れない。
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少し前、「ティール組織」という言葉が流行った。
提唱者の、フレデリック・ラルーによれば、ティール組織は、次の3つのブレークスルーをもたらすという。
・セルフ・マネジメント
・全体性
・存在目的
なるほど。
セルフ・マネジメントが社員一人ひとりに可能となる組織は、理想的だ。
だが、現実の多くの組織はそうなっていない。
社員の多くは仕事を好きではなく、職場は苦役に服する場所だと感じる調査はいくらでもある。
ラルーは、それを妨げている原因を、「権力の不平等な分配」だと述べる。
社内全体にモチベーションの欠如が広がっている組織をよく見かけるが、これは権力の不平等な分配によって生まれる。
出典:フレデリック・ラルー ティール組織 英治出版
そして、彼はティール組織によってそれを解決できる、と述べる。
「だれもが強い権限を持ち、無力な者が一人もいないので権限委譲が必要ないという組織構造と行動様式を設計できたらどうなるだろう?」と。
理想は確かに立派だ。
が、私にはそのようなコンセプトは
孔子のいう「礼節」
キリストの「隣人愛」
ブッダの「八正道」
と同様に、実現不可能なものに見える。
つまり、目指すものとしては立派で、実現するべく努力すべきものではあるが、
提唱されてから2000年以上を経てもなお、全人類が実践できたことは一度としてない、
そういうものだ。
つまりラルーは「ダメな人間」を想定していない。
「素晴らしい人間でいるべき」という提案は、むしろマネジメントの実務と言うよりも、宗教に近いものだ。
フレデリック・ラルーの次の言葉に、それは象徴的に現れている。
なぜこれほど多くの人々はあんなに働いてからディズニーランドに逃げ込むのだろう?
TVゲームはどうして仕事よりも人気があるのだろう?
なぜこれほど多くの労働者は引退のときを夢見て、その後の計画を立てることに何年もかけるのだろう?
その理由は単純だが、気がめいるものだ。私たちは職場を欲求不満のたまる、つまらない場所にしてしまった。
社員は言われたことをやるだけで組織の意思決定に加わる方法がほとんどなく、自分の才能を十分に発揮もできない。
当然の帰結として、自分の生活を自分である程度コントロールできる楽しみに引かれるようになる。
彼は皆が
「自分の才能を発揮したい」
「生活をコントロールする楽しみを得たい」
と考えることを前提としているが、そんなエビデンスは存在しない。
むしろ、行動経済学的には、自由な意思決定は最善の結果を保証しない。
人間は種々のバイアスにとらわれており、どちらかというと「自らの欲求に沿う決定」を合理的であるかのように仕立ててしまうからだ。
したがって、仮に「平凡な人が大半を占める」組織で、そんなことをやったらどうなるか。
バイアスの大きな意思決定がなされることによるや、才能を発揮しなければならないという思い込みによるプレッシャーが、逆に多くの人を苛むにちがいない。
「優秀な人」を前提とした仕組みは、機能しないことは、すでに多くの歴史が証明している。
制度や組織は平凡な人を前提として設計しなければならないのだ。
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私の会社では非常に多くのライターさんに執筆をしてもらっている。
そして、ライターさんは大きく2種類に分かれる。
まず「何書いてもいいですよ、絶対にボツにしませんので」と言うと、喜ぶライターさん。
本当に自由に書いてくるし、嬉々として趣味に走る人もいて、私はそういう記事を歓迎している。
ところが中には
「自由に書いてくれ」は、困ります。
というライターさんもいる。
私個人がライターをやる場合には「自由にやらせてくれ」派なので、逆にこの返信は非常に意外だった。
「いや、本当に何書いてもいいです」
と言っても、
「決めてくれないと書けません」という。
「なぜですか?」と聞くと、
「そういうのは、やってないんです。」という。
まあ、そういうことなら、とこちらでテーマを決めて、ライターさんに書いてもらったのだが、ただ、私が勉強になったのは、
「自由であることを疎ましく思う」人も、それなりの数、いや、むしろ多いのかもしれないという事実を知ったことだ。
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「売上はすべてを癒す」
とどこかの経営者が述べていたが、会社が儲かっており、成長著しければ、「いい人」が集まってくる。
そして「いい人」は、たいてい、自由にやらせればやらせるほど、結果を出す。
彼らは自律的で、会社への貢献がなんであるかを理解しており、内発的動機による意欲を持っているからだ。
だが、一度事業が傾けば、そのような人は蜘蛛の子を散らす用に去っていき、
残るのは「平凡な人々」だ。
そして平凡な人々は「自由」を扱いきれない。
彼らは指示を待ち望み、会社への貢献は定義されてなければならず、意欲の源泉は他者からの評価である。
「金を持ってて」「優秀な人がたくさんいる」会社の仕組みやルールは、普通の会社にはまったく参考にならないのは、そのような理由からだ。
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