今や現政権の目玉となっている働き方改革。この政策は行政府の長たる安倍総理主導で進められていますから、いわば究極のトップダウン改革と言って良いでしょう[1]。しかし、仮にトップが素晴らしい改革案を提示したからといって皆がそれを万歳三唱して受け入れられるわけではありません。改革の真の意味での実現には必ずどこかに痛みが伴うからです。
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人手不足に悩んだ会社員時代
話は少し変わりますが、フリーランスになる以前、私は地元の企業に勤めていました。恥ずかしながら人と同じことをするのにも時間がかかり、その結果労働時間も長くなってしまうなど、決して優秀な社員ではなかったと思います。
なぜ労働時間が長くなってしまったのか。その理由には「人」の問題がありました。
私はいわゆる現場で業務を行う従業員の勤務割を作成し、そして彼らを管理する立場にいました。この管理業務を行うにあたり、最も大きな課題となったのは慢性的な人手不足です。
少なくとも私が勤務していた時には、仮に100人分の仕事があるとして実際の人員は80人程度しかいない、というような状況でした。
人手が足りなくなった理由としては3つ考えられます
①高齢化に伴うベテラン勢の退職
②より厚遇な企業、機関への人材流出
③コンプライアンスの強化に伴う労働時間の是正
これらの要因3つのどれもが企業にとっては大きな課題となりうるものですが、私が現場で最も大きく感じた要因は③の労働時間是正です。
「流動的な労働市場」では解決できない人員課題
私の管理していた現業員に必要とされる技能は、専門的なスキルに加えて業務を行う地域に関する深い知識と実地的な経験です。さらに言えばそれらの不足によるミスが人命を脅かしかねない類の業務でした。
要するに、人手が足りないからと言って簡単には補充できない性質のものだったのです。「100人分の仕事があって80人しかいないから、じゃあどこかから30人、契約か派遣で確保してこよう」というわけには行かないのです。
これに加えて、事業内容がインフラと言って良いほど人々の生活に根付いたものだったので、人が足りないなら業務を削減しようという手段を取ることもできません。業務量の削減は消費者の損失に直接つながります。
人手が足りない中で頼らざるを得なかった解決方法
人手は決して十分ではない。かといってすぐ調達できるような性質の業務でもない。業務量の削減もできない。では、どうやって80の人員で100の仕事をこなしていたのか。その解決方法は至極簡単で、不足した20の仕事を無理矢理80人に振り分けていたのです。彼らの業務は完全に時刻に基づいて行われるものなので、時間的な圧縮、つまり生産性の向上ができるものではありません。
したがって、不足分の業務を割り振られた従業員の労働時間は甚だ長くならざるを得ませんでした。
ちなみにこの割り振りは、常に80人に対して20の仕事を均等に振り分けるのではなく、80人がシフト制でいくつかのグループに分かれ、足りない20の仕事を持ち回りで負担するというシステムです。各自が少しずつ負担するわけではありません。
結果、負担する人にとっては業務量が局所的に増大することになります。勤務が終了したら帰って寝るだけ、さらに割増賃金で休日も出勤という人も決して珍しくありませんでした。
労働時間の是正に苦しんだのは他ならぬ労働者だった
ただ、このように従業員にとって厳しい状態が続いても以前は問題ありませんでした。私のいた職場では、もちろん限度はありますが「お金をくれるのならいくらでも仕事をしてやるよ!」あるいは「困っているなら手を貸すよ!」という現業員が決して少なくない人数いて、それに対して管理者は「じゃあお願い!」とゴーサインを出すことができる状況だったからです。
全国1万人の会社員・公務員を対象に行った残業調査によると、残業をする主な要因は「生活費を増やしたい」が最も多いという結果が出ています[2]。労働時間と賃金が相関関係にある以上、このような傾向が出るのは自然でしょう。
私の職場ではその傾向がとりわけ強かったのかもしれません。その是非はともかく管理者にとっては正直ありがたいことでした。働いてほしい管理者と働きたい従業員、双方の利害関係が一致したおかげで、なんとか現場を回すことができたからです。
しかし近年、事故や事件などにより数々の労働問題が浮き彫りとなり、コンプライアンスを遵守する風潮が社会的にも強くなってきました。帝国データバンクの調査によると、コンプライアンス違反に伴う倒産の件数は2015年が最も多く289件にも上ります。これは2011年度の2倍近い件数です[3]。その5年間でコンプライアンスを違反した企業が倍になったとは考え難く、コンプライアンスに注目が集まった結果、世間やマスコミ、そして行政の監視が強化された結果だと考える方が自然でしょう。
労働違反が発覚すれば最悪業務停止もありえます。そうでなくても、摘発や是正勧告をされたという事実だけで企業にとって大きなマイナスになるでしょう。近年では大手広告代理店の過重労働問題が記憶に新しいでしょうか。
このような世論の変化から、私の職場でも今までのように仕事をしたい人にしたいだけ業務を振り分けるというわけにはいかなくなりました。たとえ本人が望んでも過重労働をさせるわけにはいかないからです。結果、業務命令という形で多くの残業を望まない従業員にも重い負担を強いることになったのです。
こうして、仕事が欲しい従業員は思うほど仕事が得られず、反対に仕事をしたくない従業員は望まぬ増務を強いられるようになるという誰にとっても得をしない状況に変わっていきました。当然、どちらの従業員にもストレスが溜まっていきます。特に私はコミュニケーション能力に決して優れているわけではなく、トラブルがあった時に事務的に切り替えられるようなメンタルスキルも持ち合わせていなかったので、これらの調整には非常に苦労しました。私自身の労働時間が長くなったのものような背景があったのです。
働き方改革に翻弄される現場
「過重労働がもたらす社会問題」というマクロな視点から見れば、働き方改革は非常に喜ばしいことでしょう。ただ私が会社員経験から感じたことは、誰が見ても素晴らしいと言えるような政策であっても、現場ではそう単純な話にはならないということです。何かを変えようとすれば、必ずどこかに歪みが生まれることになります。働き方改革によってこの傾向はさらに進んで行くかもしれません。
そもそも現場の従業員たちは、コンプライアンスやら働き方改革やら以前から長時間労働のワークスタイルを了承して仕事を続け、そうやって得られる収入を前提として生活を送ってきたわけです。しかし行政のトップが掲げる働き方改革によって長時間労働が是正されたら、その分収入は減少し経済的なゆとりはなくなってしまいます。人によってはローンなどの借金問題を抱える可能性もあるでしょう。
現場の従業員は、労働時間の是正によって休養できる時間は今までよりも確保できるかもしれませんが、想定していたほどの収入が得られなくなってしまいます。つまりどちらに転んでも痛みを被ることは避けられないのです。この「ライフワークバランス問題」は、私のいた職場だけでなく様々な業界においてリアルな嘆きとして浮き彫りになっています[4]。
私たち消費者は働き方改革に耐えられるだろうか
企業に求められるコンプライアンスとは、法令を遵守するだけではなく社会から求められている責任を果たすことです。しかし法令を遵守した結果、企業が社会から求められる役務の提供を果たせない場合、社会は、そして私たちひとりひとりはそれを容認することができるでしょうか。つまり限られた人員で適正な労働時間を実現した結果、今まで享受できていた便利で豊かな社会的サービスを諦めることはできるのか、ということです。
コンビニが24時間空いていない、電気やガスが機能しない時間がある、電車やバスがいつもの時間に来ない。仮にこれらのような状況になったら私たちはどう感じるでしょうか。私は働き方改革の痛みだとして受け入れられるとは思えません。おそらく企業や行政に対して努力不足だと矛先を向けるのではないでしょうか。なぜならこのような主張をする私自身も、そのような状況になれば非難するようと思うからです。いくら理想的な政策でもそのプロセスで生じる痛みを自分が被るとなれば、なかなか看過できるものではありません。
理想の文句だけでなくリアルな問題に目を向ける習慣を
もちろん過重労働を容認するわけではありませんし、すべての業界が働き方改革によって苦しい状況に陥るとも考えていません。救われる企業や従業員もたくさんいるでしょう。
真の意味で政府が掲げる働き方改革が実現するのであれば、それは本当に素晴らしいことだと思います。長時間労働は仕事のパフォーマンスを損なわせ、前例があるように大きな事故や事件にもつながりかねないからです。
しかしそれを実現するプロセスでは、企業の、それも現場で私たちの生活を支えてくれている人々の時間的、労力的、経済的な犠牲が少なからずあるのだと考えずにはいられません。彼らが身を削って防波堤になっているからこそ、私たち消費者が痛みを知らずに働き方改革に取り組むことができるのではないでしょうか。
参照
(1) http://www.kantei.go.jp/jp/headline/ichiokusoukatsuyaku/hatarakikata.html
(2) http://engineer.fabcross.jp/archeive/170302_overtime_work.html
(3) http://www.tdb.co.jp/report/watching/press/p180405.html
(4) https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51512