目次
概要
2003年に劇団四季の研究所に入所後、初舞台で『ライオンキング』のヒロイン・ナラ役に抜擢。その後も『コーラスライン』『キャッツ』といった人気公演で大役を担い続けてきた舞台女優が、熊本 亜記氏だ。
熊本氏はミュージカル界の第一線で活躍し続けるために、どんな環境で、自らの役割を全うするべく努力をしてきたのか。そして、舞台女優としての日々の中で見出した、「プロフェッショナル」としてのスタンスとは。
これらの問いかけに対する彼女の答えには、実は識学の理論との大きな“共通点”があった。劇団四季在籍時代のエピソードと共に、識学との親和性について語っていただいた。
「アドリブ一切禁止」という絶対的なルールの真意とは
識学と出会った経緯についてお聞かせください。
劇団四季を退団して間もない頃、「色々な社会勉強がしてみたい!」と思っていた私に、知人が引き合わせてくれたのが識学代表の安藤さんでした。それで会食中にお話をしながら識学の理論を聞いていたら、「あれ?劇団四季創立者の浅利慶太先生って、もしかして識学のことを知っていたのかな?」と思ってしまうほど、組織の運営方針にたくさんの類似点や共通点があったんです。それで識学にも興味が湧いて、「ぜひ受けさせてください!」とお話をして講師の方をご紹介いただきました。
会食中に話題に上がった「共通点」とは、具体的にどんな点だったのでしょうか。
例えば、俳優・女優が役を演じる時は、みんな結構「自分はこうやりたいです」みたいな、アドリブや自分なりの解釈みたいなことを持ってきたりするんですけど、劇団四季はそういったアドリブが一切禁止。
なぜかというと、劇団四季は「作品の内容やドラマ、台本の中身を伝える」ということを一番大切にしていたからです。そこに役者の自意識だったり、「こういう風に見られたい」みたいなものが入ると余計だ、という明確な方針があったんです。
「君は君でしかないんだから、君が演じているということは、それだけで“オリジナル”。だから、台本に書いてあることを、ちゃんと的確に、一字一句落とさずにお客さんに届けることでお客さんにドラマが伝わっていく。いちいちアドリブを入れたり、違う動きをしたりして、『私は前の人よりもよかったでしょ』と主張するのは、ただのエゴでしかないし、お客さんにとっては迷惑だ。
1万円以上のお金を払って、何ヶ月も前から予約して舞台を観に来てくださる方々に、20年そこそこ生きてきたただの一俳優が、『ライオンキング』『キャッツ』、『コーラスライン』のような偉大な作品を、自分勝手に表現するなんてただのわがままでしかない」といった指導を一貫して受けていました。
「アドリブ禁止」というルールが、識学の理論と重なっていた……ということでしょうか。
トレーニングを担当してくださった識学の講師の方から、「一般企業の仕事においても、『こういうことをやりたかったんじゃない』とか、『この仕事では自分らしさが発揮できない』という不満が起こりがちですが、それは間違い。与えられた役割において求められていることを一生懸命やった結果が、自然とその人らしさになるんです。
自分らしさだけが先行しても、パフォーマンスは上がっていきません」という話を聞いた時に、“役割の定義”がいかに大事かを、私はごく自然な考え方として劇団四季で学ぶことができていたんだなと改めて感じましたね。
「評価は自分でするものではない」と痛感した若手時代
本番に向けた日々のトレーニングにおいても、識学と共通の理論はありましたか?
物語を的確にお客様に届けるには、やはり技術が必要ですよね。その技術に関しては、「基本三法(劇団四季独自の母音法・呼吸法・フレージング法)」を入所1年目から徹底的に仕込まれました。どんなに経験豊富な役者でも、同じ演目を長い期間続けるうちに「慣れ」が生じます。その慣れは、そのままにしておけば「だれ」に変わり、そして演技の「崩れ」をもたらします。
劇団四季には「慣れ・だれ・崩れ=去れ」という言葉があるのですが、「去れ」とはつまり、「辞めろ」ということ。そうならないために基本に立ち返る上で、三法は非常に重要な存在なんです。この三法も、識学でいうところの「ルールの明確化」と同じだと感じました。あらかじめ枠を設定しておくこと、自己解釈が発生しないため、求められているものへの再現性が高まりますし、「崩れ」にも行き着かなくなるのだと思います。
あと、「自分なりに上手くできました」とか、「自分なりに一生懸命やってます」っていうのは、全く意味のないことなんだ、と感じていましたね。「評価は自分でするものではなく、他人がすること。それを受け入れて上を目指して努力し続けなければ、評価を得ることはできない」という意識を持って、練習や本番に臨むようにしていました。これも、識学の「評価」という理論とよく似ていると感じましたね。
ルールを守れなければ辞めろ、評価が得られなければクビ、というスタンスが明確なのは、一般的な企業と比べると非常にシビアですよね。
みんな小さい頃からミュージカル俳優を目指して、ようやくたどり着けたという想いの強さがある点が、一般企業で働く方々とは違うかもしれませんね。「えっ、クビにならないんですか?使えなかったらいらないでしょ?」という感覚です(笑)。
でも、クビということを前面に押し出すかどうかは別として、『組織に必要とされる=ルールを守って、評価を得る』ということは、一般的な企業も本質は同じだと思います。お金をもらっている以上、プロとして、この原理原則は、無視できないというか・・・。さらに、この感覚があるからこそ、競争や相互の刺激が発生し、成長への速度が早まると講師の方から聞いた時には、「なるほど、四季もそうなっていたな」と思いましたね。
熊本さんご自身は、「アドリブ禁止」や「基礎を徹底的に」といった組織の方針に対して、やりづらさなどは感じなかったのですか?
俳優の役割は、台本の内容を体現化すること。シンプルだけど、その分日頃いろいろ勉強したり、練習したことは本番でおのずと出てしまいます。だから、信じてやるしかないという気持ちでした。でも、練習はすればするほど楽しくなっていくし、やれなかったことができるようになることって、ものすごく快感なんですよ。
私の場合、本番よりも練習の方が好きでした。この課題ができたら次はこっちの課題に、その次はこっちの課題に……と繰り返しながら成長を実感していくというのも、識学でいうところの「不足を明らかにして、次の結果点に向けてクリアしていく」という考え方に似ていて、とてもしっくりきましたね。
“仕組み”と“環境”がしっかりしていれば、言い訳の余地はなくなる
これまでのお話をお伺いしていると、劇団四季という団体は非常に統制の取れた組織で、個々人が与えられた役割に集中できる環境だったのだろうなという印象を受けます。
そうですね。劇団四季の場合は、まず階層のトップに「演出家」という絶対的な存在がいたので、私たちは演出家の指示通りに演じられるように何をするべきか、迷うことはありませんでした。また、演出家と役者の間には、各作品のリーダー的な存在の「公演委員長」という人達がいて、彼らは企業の階層で例えるならば「事業部長」のような存在。演出家がいない時には、彼らがメンバーを取り仕切る権限を持っていて、本番に限らず練習中も常に緊張感がありました。
チームワークって「みんなで和気あいあい」というイメージになりますが、そういうのは全くなかったですね、本質的なチームワークというのは、それぞれが、求められるものを達成したその先に、自然と生まれていました。そういう意味ではその緊張感がすごく重要な要素でしたね。これも識学の“恐怖”で学んだことと共通していました。
また、バレエのアップを仕切るのはバレエ担当、呼吸法のトレーニングを仕切るのは呼吸法担当……といったように、俳優側にもいくつかの役割が割り振られていました。私は医務担当を長く務めていたのですが、例えばある俳優が体調を崩したら、まず私に連絡が入って、私は本部と連携してキャスティングの変更が必要かどうか判断を仰ぎます。
体調を崩した俳優は、私以外のメンバーに連絡をする必要はありません。病気やケガをしたら医務委員に連絡すればあとは指示を待つだけで良い、という明確なルールがあるのは、今思えばとても合理的な仕組みでしたね。誰もが自分の役割に専念できる、感情を持ち込まない組織だったからこそ、毎日全国で10を超える公演を同時に運営し続けられるのでしょうね。
組織の仕組みだけでなく、練習する環境も充実していました。ピアノと音響設備の用意された個室は24時間自由に利用できましたし、バレエやダンスのレッスンも毎朝受けられました。
仕組みと環境の両方が整っていると、「○○がないからできませんでした」という言い訳が一切できなくなるんですよね。逆に、この状況で言い訳をする人は、組織側にとっては「お客様の前に立たせられない=必要ない存在」、となるわけです。
最後に、これまでの経験と識学のトレーニングを経た今後、どんなことに挑んでいこうとされているのかお聞かせください。
実は、まだ「こういうことがやりたい!」というのが明確に決まっているわけではないんです。でも、こうして識学のトレーニングを受けたり、さまざまな業界の経営者の方々とお話をすることで、「人を導く仕事」に携わりたいと思っています。芸術団体なのか、また別の人の役に立つための組織なのかはまだ決まっていませんが、いずれにせよ、識学や劇団四季で学んだことをちゃんと活かした運営ができれば、上手くいくだろうなぁ、というイメージが既に湧いています。