目次
社会への漠然とした不安
少子高齢化と人生100年時代が同時に訪れ、もはや従来の年金を貰ってのんびり…といった老後生活を保障する福祉制度は崩壊している。
それに対して政府は企業に対して70歳までの雇用を努力義務とし、今まで年金として賄ってきた60代の生活費を企業に肩代わりさせようとしている。これに対応している企業も少なく、雇用したとしても一度退職させての再雇用・あるいは嘱託職員という形で契約を一新し、大幅に給料を減額しているところがほとんどだ。本人のやっている仕事が再雇用後も変わらないのにも関わらずだ。
企業としては、人件費のかかるシニア社員を本来一掃できるはずが、雇い続けなければならないということでのやむを得ない対応なのかもしれないが、自分はこれを聞いて非常にやるせない気持ちになった。
企業はシニア社員を能力は衰えコストだけかかる金食い虫と認識しているのか、自分もそのように社会から邪険にされる存在へと老いていくのかと、将来のキャリアに対する展望が持てずになっており、現に、中高年を対象とした早期退職は大企業でもよく聞くニュースになっているし、トヨタ社長の終身雇用制の維持が難しいという発言も記憶に新しい。
そんな中、自分は漠然とした不安を抱えながら転職活動をしていた。理由はベンチャー企業だった前職には明確な評価制度がなかったことだ。前職は社長の気分による非合理的なワンマン決定が常態化しており、マネージャー陣も半ば呆れながら帳尻合わせに勤しんでいるという有様であったため、正しいマネジメントとは何かと強く模索していた。
そこで出会ったのが識学だ。そして結果的に自分は識学に入社することになったのだが、その決断は果たしてどうだったのか振り返ってみたい。
明確であることの重要さ
結論から言うと、自分が転職先に求めていたことはおおむねクリアしているといって良い。
まず識学では、全てがルールで動いている。そこには個人の感情や好き嫌いが入り込む余地はなく、以前のような感情に振り回されることへのストレスはない。
これを踏まえれば、評価制度への懸念は解消されることは明らかだろう。当然全てルールとして定まっているので、どうすれば高評価が獲得できるのか明確で、それに向けた行動に専念できる。
重要なのは「全てのルールが明文化されている」こととも言える。守らなければならないルールが明確なので、少し過度な表現で言えば、ルールを守ってさえいれば何をしても良いということだ。
自由にやっていいと言われた後に「それはダメ」と指摘されれば、(先に言ってくれよ…)と思うだろう。いい仕事ができたと思ったら、全然評価されず、納得できない気持ちになるだろう。全てのルール・目標が明文化されていればそのようなストレスがないのだ。言われれば当然のことだが、これだけでどれほど働きやすくなるか。上記のような経験があれば理解できるかと思う。
社会への処方箋
話は最初にもどるが、自分は70歳まで社会に必要とされる人物でいられるか非常に心配していた。昨今ではサントリー社長の「45歳定年」発言が物議を醸したように、シニア社員への冷たい視線は止まらない。だがそれについても、識学が解決できる芽があると感じている。
なぜ彼らが疎まれているのか。それは年功序列制度によって上がってきた給料と、実際のアウトプットが一致していないからだ。成果の有無に関わらずある程度の報酬は約束されているし、出世競争からドロップアウトしたシニアにとっては頑張る理由がなくなっている。
だが、識学の制度下ならどうだろうか。明確な目標と評価制度の下ならば、人は動かざるを得ない。必然的にアウトプットと報酬が一致するようになっていく。
歳を重ねても自然に成長を続けられるサイクルが識学にあるのだ。「もうおじさんだから新しいことはできない」なんてことは言えない。このように、年齢関わらず常に成長を求められる環境ならば、社会への貢献をし続けられるし、社会に不要と断じられることもないのではないか。
常に成長を促すことから、シニア社員を「高齢だから使えない」なんて烙印を押す必要もなく、ずっと主力社員として活用することができる。また社員にとっても、全ては成果で評価されるので60歳以後の制度的な減給もない。同じ仕事をしていれば同じ報酬になる。
少子化の進む日本ではシニア社員を活用することが求められている。ただ早期退職で簡単にお払い箱にするのではなく、識学を用いた起用法は確実に社会の処方箋になり得るのではないか。
私にとっての識学
人間が社会を構築している以上、完璧なものなんてない。
冷戦は社会主義側が敗北し終焉したが、これは何も資本主義が理想の社会というわけではなく、社会主義よりも総合的にメリットが大きかっただけの話だ。
識学もこれと同じようなものと思っている。全ての問題を解決するわけではないし、識学が引き起こす弊害というのもなくはない。だが今の漠然とした組織・社会の問題の多くを解決するものではあるだろう。
私にとっては、上記のように、将来への展望を少し鮮明にしてくれた。自分だけでなく、社会全体の視野を広げてくれるものなのか、注視していきたい。